ネクター

 パパが病気で、もう長くないのよ。会いに行く?とママから言われて、私は少し戸惑った。私ひ
とりで、この世にたった一人のパパに最後のお別れをしに行くなんて、あまりにも感傷的過ぎ
る。ママは、私の父親のことをいつもパパと言う。離婚はしていないが、パパとは、もう10年以
上一緒に暮らしていない。夫婦って一体なんだろう、と思う。パパは、私が5歳くらいの時まで
一緒に暮らしていた。そして、ある日、家を出たきり、パパは帰って来なかった。私の記憶の中
で、パパとママは、理想的な夫婦だった。主にアルバムの中で。今思えば、それって、なんだ
か嘘っぽい。私は、とりあえず「ふーん。」と無表情に言ってみる。ママも、無表情に「じゃあ、ミ
カちゃん、これ」っと病院の名前と住所がメモされた紙を私に手渡した。

「で、本当に父親に会いに行くの?」
麗子は、半ば信じられないという表情を浮かべて私に問う。私たちは、私立高校のテニス部に
所属している。幼稚園から大学まで一貫教育のお嬢様学校に通っている。
「わかんない。でも、父親だし、一応」
私達は、白いテニス部のユニフォームに着替える。白いスコートに白いポロシャツ、真っ白いテ
ニスシューズに履き替える。
「10年間も会ってないんでしょ?そんな人、父親の資格なんて無いわ。」
麗子は、きっぱりと言う。
「そうよね。」
私はふむふむと頷き、唇を噛む。
「ねえ、ミカの日焼け止め貸して。うわーいいなあ。Diorだ。いい匂い。これって、ママの チョイ
ス?」
「そう」
「ずるいなあ、ミカは。あんな素敵なママがいて。その上、趣味が良くて、気前もいいなん
て。」
Diorの日焼け止めは、薄ら日焼けした私達の肌にスーと伸びて、すぐに馴染んだ。まるでなに
もつけてないかのように、しっとりとした感触だけを残して。
 ママは、自宅でお料理教室を主催している。器用でセンスがよく、美人だ。最近では、料理
の本も出版し、雑誌やテレビなどでも活躍している。今、流行りのライフスタイル提案型のカリ
スマ主婦として、もてはやされている。パパの不在は、仕事上の都合による単身赴任というこ
とで、周囲の関心を丸くおさめている。ママは、やり手で、いいものを熟知している。品質への
こだわり、その為ならお金も時間も惜しまない。

 パパとの記憶は、断片的なものだ。背が高く、がっしりとして、手が、とても温かく、大きかっ
た。よく喋り、よく笑った。とても陽気で、男らしく、笑顔がかわいい。女たらしで、きっと、よそ
の女に恋をして、私とママを捨てたのだ。アルバムの中で、パパは、若く、とてもハンサムだと
いうことを認めざる負えない。そして、たぶん、きっと、考え無しだったに違いない。幼い頃の
私は、とても深くパパを愛していた。今となっては、その存在すら、よく解らない。パパが亡く
なったら、私はどれくらい深く悲しむべきなのかすら。
 幼い私は、パパとママと寄り添うように歩いている。とっても寒くて、私はパパに肩車されてい
る。パパの首筋はとても温かくて、甘い匂いがする。当時、専業主婦だったママは、きっと、家
事を完璧にこなしていた。ママの描く幸せな家庭像を実現する為に。「せっかく外出したのだ
から、ケーキでも買って帰りましょう。」と言って、ママがデパートに行こうとすると、パパは、「ケ
ーキなら、そこの不二家のケーキでいいだろう?」と言う。「駄目よ。ミカちゃんは、アンリシャル
パンティエのケーキが好きなのよね。」とママは私の顔を覗く。「うん、アンリのケーキ。」と私
は、はしゃぐ。厳選された素材で、丁寧に作られた宝石のように美しいケーキが、整然とショー
ケースに並んでいる。通常の二分の一くらいの大きさでも、価格は二倍以上だ。ママと私は
ショーケースの中から、慣れた様子でケーキを選ぶ。「俺は、いらないぞ。そんな高いケーキ
は、」と店員に聞こえるような大きな声でパパは、言う。平然と、何食わぬ様子で。ママは顔を
しかめる。「なんで、そんな大きな声で、そんなことを言ったりするの?たかがケーキじゃない。
もう、いいわ。ミカちゃん、ケーキは辞めましょう。」私は、泣く。幼い私には、ケーキが買えない
ことが悲しいのか、パパとママの些細な喧嘩が悲しいのか、よく解かっていない。
 「ママはね、ミカちゃんに本物の解かる女性になってほしいのよ。」
ママは、私をとても厳しく、とても贅沢に育てた。そして、それは、たぶんパパにとって、とても
馬鹿らしいことだった。私が幼稚園に行く時も、二人の意見は対立した。
「普通の幼稚園に行かせればいいだろ。なんで、私立のしかも女しかいないような幼稚園に
行かせる必要があるんだよ。」
「だって、長野さんちのお子さんだって、お友達の絵美ちゃんだって、皆そこの幼稚園に通って
いるのよ。集まる子供もそれなりの家の子供たちだし、教育の質もとてもいいって、」
「他の奴がどこにいこうと関係ないだろ。世の中には、いろんな人間がいるんだよ。男も、下品
な奴も。そういう中で揉まれて育ってこそ、勉強になるし、強くなるってもんだ。そんな偏った、
気取った幼稚園にわざわざ高い金を払って行かせる必要ないだろ?」
「駄目よ。もう決めたの。ミカだって、とっても気に入ったみたいだし。入学金だって、払ってき
ちゃったもの。」
「そう、じゃあ好きにすれば、」
パパとママのお金に対する価値観は、いつもずれてて、折り合いが悪かった。きっと、育ちが違
うからだ。ママは資産家の一人娘で、超のつくお嬢様だった。私とママの住む芦屋の家も、マ
マの実家の持ち家だ。いずれ、おまえのものになるのだからと、ママは料理教室をこの家では
じめた。パパが、もう帰って来ないということを悟ると、ママは私を連れて、この家に越した。勿
論、ふたりの結婚に、ママの両親は大反対した。パパは、運送会社の従業員で、自分の娘に
は見合わないと思ったからだ。しかし、二人は結婚した。ママの両親の許可を得ないまま。マ
マはパパのことを深く愛していた。多分、パパも。結婚式は、挙げず、小さな教会で、二人だ
けの簡単な誓い事をして、パパはママのために指輪を一つ買った。シンプルな何の装飾もな
い指輪。その時、ママのお腹の中には、私がいた。

 私は、パパに連れられて、出かけるのが大好きだった。パパはいつも腰の曲がったお婆さん
が細々と営む駄菓子屋に私を連れていってくれた。埃っぽい店内は、薄暗く、こまごまとした駄
菓子や玩具が所狭しと並べられていた。私とパパは、駄菓子を選んで、保冷庫でキンキンに
冷えた不二家ネクターを買う。それらは、けしてママには買ってもらえない安価な毒々しいもの
ばかりだ。
「おまえは、その桃のジュースが本当に好きだなあ。」
パパは笑って、ネクターを飲む私を抱きかかえ、車にもどった。パパと私は、ママに内緒でよく
競馬場に出かけた。パパは競馬が好きで、いつも僅かなお金を賭けて、大抵は負けてばかり
いた。パパは競馬のことを「罪のない遊び」と言っていた。ママにとっては、理解不能の、最も
無駄なお金の使い道に過ぎず、幼い娘をギャンブルに連れ出すなんて、もっての他と、彼女
は、言うだろう。私は、馬を見るのが大好きだった。レースに熱中して一喜一憂するパパを眺
めるのも。そんなパパにくっついて大好きなお菓子を食べるのも。その日、私はパパとはぐ
れ、迷子になった。私は雑踏の中で、あまりにも無力で、押し潰されてしまいそうだった。私は、
懸命にパパを探した。パパの背中を、パパの面影を。でも、パパは、何処にもいなかった。私
は、人の歩く方向を、又は、それに逆らい、掻きわけて、パパを探した。「パパ」と何度も叫んで
みる。場内アナウンスと歓声に揉み消され、私はただ口をパクパク動かすだけだ。今にも泣き
出しそうだった。競馬場の人が迷子になっている私を保護してくれてた。名前を聞かれ、パパ
と一緒に来ていることを伝えた。その人は、競馬場内にある従業員の控え室に私を招き入
れ、「アナウンスを入れるから、ちょっと待っていて」と、出ていってしまう。私は、一人パイプ椅
子に座り、「パパ」と声に出して言ってみる。
 構内アナウンスを聞いて、パパは、焦るように、私を迎えにやって来た。それでも私を確認す
ると、「ごめん、ごめん、」と、苦笑いした。私は、パパに抱きつき、パパは私を強く抱きしめ
た。「ごめんよ、そんなに泣いちゃ駄目だ」と、私の涙を大きな手で拭う。私はパパの温かい胸
に顔を埋める。タバコと、太陽の入り混じったような甘い匂い。
目覚めると、私は、競馬場の職員と、二人の警察官に取り囲まれていた。
「パパ」
と私は、もう一度声に出して言ってみる。
「もうすぐ、お母さんが来るからね。君は、一人でここに来たんだよ。こういう所へは、一人で来
ちゃ駄目だ。もう、6歳なんだから解かるよね。お母さんも、とても心配しているよ。」
警察官のひとりは、とても優しく私に、言う。
「いっぱい泣いて喉が渇いただろう?なにか買ってくるけど、何が飲みたい?」
「ネクター」と私は言う。

 放課後のテニスコートで、私たちは懸命にボールを追いかけた。自分で言うのもなんだけど、
私は運動神経がとても良い。「きっと、パパ譲りね」とママは、言う。「パパはすごく運動神経よ
かったもの。頭は悪かったけど」と言って、笑う。
「ミカ、飲み物買いに行こう。」
麗子は、自販機の方を指差す。私たちは息を切らして、体育館の裏にある自販機で飲み物を
買う。「不二家ネクターなんて、懐かしい感じ、まだあるんだ。」と麗子は私の買ったネクターを
見つめる。
「私、子供の頃、ネクターがすごく好きだった気がする。」
昔、ネクターの缶は、もっと硬くて、口をつけると微かに鉄のような味がした。そして、その後
に、冷たく甘い液体が口一杯に広がるのだ。



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by holly-short | 2006-08-18 23:34 | 「お題小説」
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