S21.

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カンボジア首都プノンペンの中心から少し南方に行ったところにS21はあった。私達はゆっくりとカンボジア式の朝食を食べ、ドライバー付きのトヨタカムリに乗ってまず王宮を訪れた。王宮は新しく馬鹿みたいに綺麗でまるで遊園地かファンシーな塗り絵みたいだった。全身エメラルドで出来た大仏(でも実は翡翠?)純金の大仏、ダイアモンドをふんだんに埋め込まれた大仏、贅を尽くして装飾された大仏の数々。正に仏教の国カンボジアってことはよく解ったけど、これって王としての富の象徴?それともブディズムへ対する畏敬の念によるもの?質素で簡素な仏様に見慣れている日本人のワタシにとって南国の妙に派手で金ピカ電飾カラフルな仏にはちょっと違和感を感じてしまう。大味な成金趣味の様に感じてしまう。しかし祈る一般市民の様相があまりにも真剣そのものなのでちょっと面食らった。
王宮をざっと巡り、お昼過ぎのちょうど暑い時間にワタシ達はS21へと向かった。ワタシは例のごとく何の予備知識も無くカンボジアに来てしまったのでS21についても何も知らなかった。何も知らない無知なワタシに友人は聞いた。

「ねえ霊感強かったけ?」
「霊感?」
「うん、霊感、霊能力、インスピレーション」
「いや、全然、まったく」
「だよね」
「なんで?」
「ここに来るとね、霊感の強い人は本当に具合悪くなっちゃうみたいだから一応聞いてみたの、念の為」
「念の為?」

なんて前置きで連れて来られたS21は、病院みたいな全体的に白い三階建ての建物で縦横2棟がL字型に並び、大きな椰子の木が何本かと南国風の白い花を咲かせた大きな木が幾つか、中央には運動場みたいな広い中庭が広がっている。開放的で見ようによっては綺麗とも言える場所。建物は古く重厚なコンクリート打ちで、白く所々ペンキが剥げ緑がかっている。換気口として設けられた石膏の格子が各階上部と階段部分にはめ込まれ、それは建物に繊細な雰囲気を与えている。全体としていい具合に朽ちた半ば廃墟のごとき建物だった。

  S21とは?(ウィキペディアより抜粋) 
1976年までは高校だったこの建物はクメール・ルージュ(カンボジア共産党)支配下のカンボジア(民主カンボジア)において設けられた政治犯収容所であり、S21はその暗号名であった。稼働中は存在そのものが秘密であったため公式名称はなく、現在は地名をとってトゥール・スレンと呼ばれており、ここは現在国立のトゥール・スレン虐殺博物館となっている。そして、ここではなんと2年9ヶ月の間に14000人〜20000が収容され、そのうち生還出来たのはたったの8名のみであった。革命が成功したのに飢餓が進むのは誰か半革命分子がいるからに違いないという、党首ポル・ポトを初めとする党中央の被害妄想に現場の看守は残虐行為で応えた。囚人達はいわゆる拘禁反応により看守達が欲している答え「私はアメリカの帝国主義の手下でした」「私はベトナムのスパイでした」を言い、その対価として拷問の責め苦からの解放、いわゆる処刑を得た。

 室内は淡いクリーム色とベージュの市松模様が広がる全体的に柔らかい色合いの空間で、なにも知らなければここでそんな悲惨な歴史的虐殺が行われていたなど想像もしなかっただろう。しかしよく見ると床には当時の血糊の後が残り、部屋に置かれた金属製のベットには手枷や拷問に使用した器具等がそのまま残されている。展示品は少なく、大量に束ねれた足枷や拷問に使用した単純な器具が無造作に置かれている。中でも当時の写真は嘘みたいに酷いものがいくつかあった。入所者や看守の顔写真が引き延ばされ大量に並んでいた。入所者も看守も一様に無表情で代わり映えが無くどっちがどっちなのかワタシには全く解らなかった。どちらもまだ子供のように若い人達が沢山いて実際に看守は十代の少年少女がなることが多かったのだそう。彼らは大量の人間を尋問し拷問して殺した。そしてS21の秘密を守る為にその殆ども後に同様に処刑された。

霊感のないワタシは具合が悪くなることは遂ぞなく、場所ということだけに関していえば何を感じることもなかった。NOインスピレーション。ただ何処でも誰でも求められれば如何様にもなってしまえるのだなっと思った。ここにワタシの顔写真があったとしてもオカシクないのだという事実は嘘みたいで嘘だけどあり得ないけど十分にあり得るのだという事実が信じられなかった。
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by holly-short | 2008-03-13 23:10 | diary
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