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ゆらゆらと  (後半)

 特養はシンと静かな場所である。病をかかえた老人が何をするわけでもなく、ぼんや
りと時間をやりすごしている。殺菌されたように無機質でガランとした空間にさまざま
な匂いが湧くように漂う。薬の匂い、消毒の匂い、リネンの匂い、食べ物の匂い、排泄
物の匂い、さまざまな生活の匂いが漂う。そんなあからさまな生活臭に、はじめ違和感
を感じるが、そのうち慣れてしまう。慣れてしまえば、なにも感じなくなってしまう。
すべてが日常と化してしまう。

「お前さん、お前さん」
3階の廊下の隅に並べられた机に座ってテレビを見ていたら、車椅子に座った小柄なお
爺さんがずんずんと近づいて来た。お爺さんは、不思議な形をした毛糸の帽子をかぶ
り、黄色い顔に張り付けたような細い目をパタパタと開けたり閉めたりしている。ずん
ずんとやってきて、ぬっと私に顔を近づける。
「お前さんは、どこから来た?」
「私?この近くに住んでいるんです。ここにお婆ちゃんがいて」
「そうか、そうか」
とお爺さん、頷く。頷くと帽子についた毛糸のボンボンが跳ねるように揺れる。
「お前さんは、噂によると角を持っているとな、角を持っていると聞いたのだが、
ちょっと見せてはくれんじゃろうか?」
「角?」
真剣な顔で頷く。頷くたびにボンボンが揺れる。
「角って、なんの角ですか?私、角なんて持っていません」
「そんなことはないだろう、お前さんは角を持ってんだろう」
と縮んだ黄色い顔を曇らせる。そして、角だとか、白いものだとか、よく解からないこ
とを並べたて、終いには濁った舌を打ち、消えた。私はテレビの続きを見た。なにかメ
ロドラマめいたお昼の番組がやっていた。

 二人で暮らすようになってから、母は当面の生活費を稼ぐために昼間はファミリーレ
ストランで、夜はスナックでホステスをして働いていた。スナックの寮になっている小
さなアパートに二人で住み込んだ。私はそこから新しい小学校に通った。小学校から帰
ると、母が持ち帰ったお店の餃子や焼きそばなどを温めて食べた。もともと生活は裕福
ではなかったから、そんな生活には慣れているものと思っていた。母が夜の仕事に出か
けた後、私は、ずっとテレビを見ていた。それまで、テレビを自由に見ることが出来な
かったので、テレビばかりを見ていた。母から貰った小遣いでお菓子を買うのが楽しみ
だった。テレビを見たまま、そのまま朝まで寝てしまうことが習慣になった。見る番組
がなくなっても、テレビを見ていた。そんな生活は半年以上つづいた。

「お母さん、私ね、顔がヒクッって、するの。なんだか、ヒクッって、しちゃうの」
「どうして?どこか痛むの?」
「ううん、ただ、ヒクッて、どんどん出てくるっものだから、なんだか妙だなって」
「大丈夫よ。人間だもの、そりゃあ、たまにはヒクッてするわよ、顔の運動かなにか
よ」
母は笑った。何時の頃からか、顔の痙攣が頻繁に見られるようになった。頬の筋肉が無
意識に引きつり、堅く縮みあがった。一度私は、ヒクッとする時分の顔を鏡に写して見
たことがある。歪んだ顔は、なにか脱殻のようで、他人の顔のように思えた。子供らし
さの薄い、寂し気な顔だった。

 カツさんは、日本に帰ってから旦那の事業がうまくいかずに体を売って暮らしてい
た、との噂があった。そんな噂を広めているのは、チャラコという元芸者のお婆ちゃん
だ。チャラコという源氏名で熱海の民宿で芸者をしていたのだと、寮母さんから聞い
た。寮母さんも、他のお年寄たちも影で、本名は呼ばずにチャラコ、チャラコと呼んで
いた。チャラコは、大嘘つきのひねくれ物、性根が悪く、チャランポランで、いつも問
題の種だった。今日はチャラコが、昨日はチャラコが、とチャラコ話が絶えなかった。
お洒落というわけでもないが、お化粧をかかすことなく、その素顔は滅多に見せない。
染みのある大きな顔は、白く粉がはたかれ、紅は酒杯のように赤く、眉は黒く細く、元
のものよりも上にはねている。薄い頭髪は、真っ黒に染められ、いつもペタリとなでつ
けられている。黒く湿った切れ長の目も、紅のひかれたおちょぼ口もいつもニタリと
笑ってみえる。まるで魚のような顔をしている。一度チャラコとカツさんがもめたこと
があった。お昼時で、廊下に並べられたテーブルに腰をかけ、チキンライスや、ミニオ
ムレツなどを食べていた。ご飯は、仲の良いものどおしでグループになって食べる。ボ
ケている者どうし、難病患者は難病患者どうし、グループに別けられ、寮母さんや看護
婦さんの介護を受けながら食べる。12時のお昼、6時の夕食もいつもそうして食べ
る。毎度毎度のことなので、会話はあまりない。これが旨いだの、これが旨くないだの
言いながら食べる。その日、西峰さんは、リウマチが痛いと首をガンと横に振り動こう
とせず、朝食同様ベットでの昼食を楽しんでいた。私もいつものように椅子に腰かけて
本を読んでいた。その日、やけに外が騒がしく感じた。なにか叫び声のような、金切り
声のようなものが沸き、廊下に出てみると、チャラコとカツさんが何か罵倒しながらお
互いの着物に掴みかかっていた。

「アンタはいつも人の物を盗む。アンタのような淫売育ちのパンパンガールはそれだか
ら駄目なの」
とチャラコは甲高い声をあげる。
「オマエみたいな枕芸者にそんなことを言われる筋合いはないんダヨ」
「私はねえ、何を隠そう花柳界のちゃんとした芸者です」
とチャラコの尖った爪がカツさんの頬を引っ掻く。
「ギャッ」
とカツさんの平手がチャラコの肩を叩く。
「アンタが盗んだのは解かっていますよ。下品な女ですからね。この年になっても盗み
癖が抜けなくて仕方ない」
「オマエこそ、熱海の枕芸者め」
とカツさんは、平手をグーにしてチャラコの肩を叩き、目には涙をため、騒ぎを聞いて
駆けつけた看護婦に取り抑えられた。チャラコはと言えば、相変わらず尖った爪を猫の
ようにかき回している。
「アンタは、負けを知らない女ですよ。負けを知らない」
などと喚きながらカツさんの顔を引っ掻く。ベットに連れ戻されたカツさんの顔には赤
いミミズ腫れ長い線を引いていた。涙をながし、声を立てて泣く。
「峰ちゃん、私は悔しい。悔しくて、悔しくて仕方がない」
ズルルと鼻をすする。
「こんな悔しいのはないよ、悔しい、悔しい」
と体をバタつかせる。
「チャラコめ、チャラコめ」
と歯を震わせる。
「峰ちゃん、峰ちゃん、聞いているノかい。私は悔しくて、悔しくて」
西峰さんは、いつもやるようにケ、ケ、ケとやって、ケチャップ色に染まる口いっぱい
にチキンライスを頬張っていた。

 平日の昼間なのに大学病院の待合室は混雑していた。ずいぶん長い時間、女性週刊誌
をパラパラとめくっていた。母は私の横で首を垂れて眠っていた。何度か名前が呼ば
れ、そのうち私の名前が呼ばれた。その部屋は大きくも小さくもなく、空気がすこし澄
んでいるような気がした。硬く糊のきいた白衣を着た医者は、ずいぶんと若く見えた。
母にいくつかの質問をして、私にいくつかの質問をした。おだやかな喋り方で、他人の
話を聞かされている様だった。たまにチラリと私を見た。待合室から持ってきてしまっ
た女性週刊誌のゴチャゴチャとした表紙を見るというわけでもなくながめていた。

「具合はどうかな?」
「具合はいいです」
「どこか調子がよくないとか、息が苦しくなるとか、食欲がないとか、眠れないとか」
「あんまり眠れません」
「眠れない時は、どうするの?」
「あー眠れないなあって、いつもだいたいテレビを見たりします」
「じゃあ、学校では眠たくなったり、しんどくなったりしないかな?」
「別にそんなこともないです」
そんなやりとりをとりとめもなくして、何か診断書のようなものをミミズが這うような
字でクネクネと書いた。終わるとも終わらないとも解からぬようなうちに診断は済ん
だ。病院の帰りにデパートに寄った。デパートの最上階にあるレストランでハンバーグ
定食を食べ、クリームソーダを飲んだ。
「なにか欲しいものある?」
母が聞いた。私は首を横に降って、クリームソーダの中の安っぽいバニラアイスをス
プーンですくってみた。いつも欲しいものが一杯あったはずなのに、いざとなると何が
欲しいのか解からなかった。時々、曖昧になってしまうことがあった。テレビを見てい
ても、学校で友達と話していても、薄く薄まっていくような気がした。話し声もザワザ
ワとザワめき、目に写るものも背景のように他所他所しく見えた。

「氏より育ちって言いますけれども、育ちというものはどうにもならないようです。わ
たくし東京生まれの江戸っ子チャキチャキですよ。なんでもきちんと時分でやるように
育てられています。人にやってもらうのはどうもスッキリしません。わたくし、そうい
う主義です。」
と菱田さんは雑巾を硬く絞る。白い割烹着をハラリと着て、艶のある銀色の髪を一つに
まとめ、鼈甲のかんざしを刺している。
「家は料亭でしたから小さな頃から茶道や華道をたしなんでいます。だからでしょう
か、わたくし自身、躾でもなんでもきちんとしなくては我慢ならない方です」
菱田さんはキリリと端正な顔をしたお婆ちゃんで、とても85歳には見えない。私はカ
ツさんに頼まれて、ブラジルにいる娘にあてた手紙をもらいに菱田さんのお部屋を尋ね
た。カツさんは、軽いリウマチで字が書けないので、菱田さんが手紙の代筆をしてい
る。
「女学校の時分から代筆をしています。ラブレターの代筆もよくしてました」
「ラブレター?」
「そう。ラブレターは駆け引きですから、難儀です。本来、女はむやみに男にラブレ
ターを送るものではないですね。甘く見られますよ。甘く見られるから女は捨てられる
のです。女というものは惚れている振りをしては駄目ですよ。当り前ですよ。惚れてい
ながら、惚れていないふりをしなくてはいけません。好きだわ。なんてそんな言葉は、
御法度です。男の心を掴むには、さり気ない言葉です」
「そうですか?」
「そうですよ。例えば、今は春で桜が咲いていて温かいが風が吹いていて情緒的である
だとか、そんなような事に男は弱いものよ。たとえば北原白州の唄のような、凛とした
感じとか、ふっと、忘れ名草が咲いているだとかね、万葉集なんかをちょこっとね」
「万葉集?」
「わたくしはね、文学です。文学を志していたました。幼い頃から本が好きで、世界文
学全集なんて全部読みました。明治の作家が好きで、女学校では、文学で認められて、
講談社の少女クラブに紹介されましたね。女の友情について書いた文でした。両親に文
学なんかでは食べていかれないって、そんなに甘くはないっていつも言われてね、今で
も、俳句や川柳とかを書きます。広告の裏でも白いものがあれば束ねておいて、いつで
も落書きをしています。書いていると頭がスッとします。いいものが出来た時は、とて
も嬉しいものです」
菱田さんはそう言うと、朝できたばかりの俳句を赤い千代紙の裏にサラサラと買いてく
れた。カツさんの娘に宛てた手紙にはブラジルの住所が筆圧の強いしっかりとした文字
で書き込まれ、孔雀の絵柄のついた大判の切手が二枚ペタリと貼ってあった。
「カツさん、、チャラコさんと一悶着あったでしょう。あの事は、ちゃんと伏せておき
ましからって、カツさんに伝えてちょうだいね」
「あの喧嘩のこと」
「人間ですもの、いつも真面目な話しばかりやっているわけにはいきませんよ。悪口を
言ったり、それが人間の華ですもの。火事と喧嘩は江戸の華って、そんなものですよ。
年をとったって、お爺さんやお婆さんになったって人間なんて嫉妬心は抜けませんね。
だって、それが人間なんですもの」

 その日、母はずいぶんと早い時間に仕事から帰ってきた。ほろ酔い加減でフワフワと
浮くように歩いて、竹の子の皮のようなものに包まれた小さな塊をちょこんとつまみ、
「ハイ」
と言って、浮くような手つきでそれを渡す。私の手の上で、それは思ったよりもずっし
りと重たかった。
「ほら、サッチャン、食べて、食べて」
と気見悪く笑う。母が酔うのは珍しい。母は酒に強く、どんなに仕事であおってきても
能面のように白い顔を浮かべて、素面のように平然としているのだ。この母、偽物かも
しれぬと本気で思い、しかし、どう見ても母なのだ。母はフフフと笑みを漏らした。硬
く結んだ竹の子の皮の中に鮮やかな黄金色をしたダシ巻卵が在った。
「なにこれ?」
「母さんね、今日から小料理屋に務めることになったの。朝はとおっても早いけど、夜
は早い時間に帰って来れるし、お店もいかにも日本的な小さな料理屋でね、女将さんも
よい人で、今日、面接に行ってきたんだけど、すぐに採用されたのよ」
とフフフと漏らす。
「さっそくダシ巻き卵を教わったの。四角い大きな鉄のフライパンで、油をたっぷりひ
いて、卵なんて20個も使っちゃうし、こうやってね、どうやって身体をつかって巻い
ていくのよ」
と身体を揺らす。私もフフフと漏らしてみたけど、母のようにはうまくいかなかった。
「お母さんね、着物を着るのよ」
母が切り分けてくれたダシ巻卵はほのかに甘くて、すこし焦げた味がした。美味しいの
だか、美味しくないのだか、なんだかよく解からないあいまいな味がした。

 正月に西峰さんを3日間だけ外出させて、家族4人で三が日をすごそうという案が決
まった。はじめは渋っていた西峰さんも、美味しいものが食べられるなら、という条件
付きでなんとか了承した。説得したのはカツさんだったが、カツさんは身寄りが無く、
そんな西峰さんを羨ましがった。8割方の老人は、身寄りが在る無いにかかわらず施設
の中で正月を過ごすのだそうだ。西峰さんはリウマチが酷く、自分で動き回ることが出
来ないので、母は簡単な介護の仕方や、おしめの替え方などを習いに、特養内で開かれ
た小さなセミナーに参加した。私は談話室で、ジュースを飲みながら母を待っていた。
何処かからお爺さんやお婆さんがワラワラとやってきて「のど自慢」を見はじめた。

「下手くそだねえ、みんな歌が下手だよ」
「当り前だよ、みんなずぶのシロウトなんだから」
「身空ひばりは、歌が上手で上手でね、作曲家が言っているんだから本当ですよ」
「当りメエだよ。オマエ、ひばりを何だと思ってんだよ、ひばりは、天才だモノ」
「そんなら、北島はどうだい?」
「北島三郎は、駄目だよ。あいつは悪い男だもの、北島は危険な男だよ」
「この人はね、三波春男が好きなんだもの」
「私は歌手では、三波が一等好きよ」
テレビを見ながら老人たちはポツリ、ポツリと間の多い話をしていた。セルロイドでで
きた古びたフランス人形を大事そうに抱きしめたお婆さんが廊下をチョボチョボとした
足取りで通り過ぎた。
「ほら、婆さん、あんた靴の紐がほどけてんよ、ちゃんと結ばなきゃあ駄目だよ」
と一人のお爺ちゃんが注意すると、彼女は人形を近くにいた私に預けて、小さく屈む
と、ほどけた靴の紐を子供のような手つきで黙々と結んだ。人形は硬く冷たかった。手
垢で黒ずんだ顔に大きなビー玉のような目が不自然に輝いていた。お婆さんはようやく
靴の紐を結び終えて、黙って私から人形を受け取るとまたチョボチョボと歩いていって
しまう。帰りに、母と私は正月の買い物に出掛けた。商店街は派手に飾られた年末の買
い物をする人々で賑わっていた。母もそんな人たちに混じって、野菜やら、魚やらを手
にとった。西峰さんを迎える為の老人用のおむつや、下着、小さな橙色のチャンチャン
コを買った。私は、西峰さんに三波春男ベストと書かれたCDを一枚買った。

 結局、西峰さんは年を越すことなく、特養の柔かい布団に包まれて静かに亡くなっ
た。その日、母は正月の準備に忙しく朝から大きな鍋をいくつも用意し、台所を湯気で
一杯にしていた。私も食卓に積まれた人参や慈姑、蓮根や大根などの皮をせっせと剥い
ていた。突然の電話で西峰さんの死は知らされた。とても事務的で平坦なその声はまる
でテープで録音された音声を繰り返しているかのようだった。私は待ち合室で待ってい
た。書道クラブの掲示板には、冬らしい文字が一列に並んでいた。

「柚」
「冬至」
「寒い朝」
「蟹」
「正月」

まるでビー玉をはめこんだような中央に厚いレンズがはまった眼鏡を掛けたお爺さんが
日だまりで煙草をふかしてた。車椅子に座り背の曲がったお婆さんが私の隣にやって来
て、並んだ。

「おはようございます」
と私は小さく挨拶した。
「暖かいのはいいわよ、暖房は嫌い、暖房は気分が悪くなるもの」
お正月の歌を歌っているお爺さんの声が聞こえた。
「正月、正月って、何のことはない、別にここにいたら正月だろうが、何だろうが一緒
なのに」
「どこか、行きたい所でもあるんですか?」
私はなんとなく聞いてみた。
「どこかここではなくて、その時、行きたい所に行きたいのよ。ここは、異常な所だも
の。異常な世界よ。私は自由人だから、こんなところにはずっといられないもの。この
中だけが私の世界だと思っていたら、とてもじゃないけど生きていかれないもの」
「じゃあ、これからの夢とかあるんですか?」
「夢?ここでは夢はないわよ。夢はもう辞めました。母が蕎麦やうどんを作ってくれる
夢はたまにみるけど」
そう言って、お婆さんは車椅子の脇にたたまれた新聞を取り出しテレビ欄を顔ギリギリ
まで近づけて、またなにかモゴモゴと喋れ始めた。母が来て、私を呼んだ。私が離れて
も、そのお婆さんはいつまでも一人で喋りつづけていた。お爺さんが緩んだ股足袋の中
から二本目の煙草をとりだし、火をつけた。どこか遠くで、まだ正月の歌を歌っている
のが聞こえた。
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by holly-short | 2007-01-01 10:41 | short story

ゆらゆらと  (前半)

 はじめてそこに行ったのは、夏の暑い日の午後だった。そこは、特別養護老人ホーム
で、疾患をかかえる老人が集まる老人施設だ。略して特養と言うらしいが、私は始め特
老だと勘違いしていて、なにか特別な老人が集められているのだと思っていた。白く塗
られた堅く無機質なビルヂングも、ガランと清潔な廊下もとても涼しげだ。母は、一歩
建物の中に入ると、まるで私の存在など忘れてしまったかのように先を歩いて、階段を
タンタンとのぼって、何処かに行ってしまう。まだ朝の8時前だというのに、時間は
ゆっくりと希薄な感じがした。窓ガラスには、星型のシール、大きな文字で書かれた誰
かの名前、天井からはオリガミを細かく切ってつなぎあわせた紙飾りがダラリと色褪せ
ている。色紙や包装紙を細かくちぎって張り合わせた大きな夜空に天の川。書道クラブ
と張り紙されたボードには、半紙がヘラヘラと扇風機にあおられていた。

「暑い夏」
「涼」
「朝顔」
「西瓜」
「七」
「ぬ」

壁に掛けられた大きな黒板には7月の行事が大きなしっかりとした文字で書き込まれて
いる。それを見て、「あ、」
と、一言、言葉が漏れた。誰もいない廊下で、言葉は吸収されるようにシュンと消え
た。七夕であった。白い制服を着た看護婦が私の横を忙しそうに通りすぎた。私は、母
の後を追い長い廊下を歩き、階段をのぼった。階段と廊下をつなぐ境目には、小さな鈴
が所々についた木製の柵が立てかけられていた。通り抜ける度にシャリンシャリンと鈴
が鳴る。寂しい幼稚園の様にシンと静まりかえっている。ずらりと並んだ大部屋の前を
ウロウロとしていると、一つの部屋の中から母が顔を出し、私を見つけた。

「サチ、サチ、早く、来て、来て」
と手招きで私を呼ぶ。部屋の中はパイプベッドが並んでいる。数人の老人がそこで暮ら
している。ベットは大きな白いカーテンで仕切られ、西峰さんは窓際のベットに体を横
たえ、落ちくぼんだ小さな目をショボショボとさせていた。西峰より子と書かれた名札
がベットの背もたれにかけられていた。白い下着のような着物を着ていた。頭髪は白く
薄く、顔はたくさんの皺でにぎわっている。男性とも女性とも区別のつかない不思議な
生き物に見えた。私が母の横に来ると西峰さんはゆっくりと腰をあげた。

「どなたさん?」
その声も、言葉もしっかりと重く思わずギョッとした。母はニコニコと笑顔を浮かべて
私を紹介した。
「これが娘のサチです。ほら、サチ挨拶しなさい。あなたのお婆ちゃんなのだから、西
峰より子さんと言うのよ。」
と楽しげに言う。
「こんにちわ」
と挨拶して軽く頭をさげた。吐き出された言葉はまたどこかに吸収されてしまうような
気がした。西峰さんは、表情ひとつ変えず、にこりともせず、その白目とも黒目ともあ
いまいに落ちくぼんだ2つの穴の中から私を覗いた。すーと息を吸い、モヤモヤとした
欠伸をかいた。うだうだとそんなふうにして、また柔かそうなベットに横になった。母
は、お土産にと持ってきたカラフルな毛糸の靴下を西峰さんに渡し、またニコニコと何
か天気のことや、仕事のことを話した。西峰さんは、といえばどこか虚ろで今にも萎ん
でしまいそうだ。ボケているのだと思った。母は一通り、喋り終えると、チラリと時計
をみて、
「じゃあ、私は婦長さんに挨拶をしてくるから」
と、私を置いてどこかにいってしまった。
私は、大きな窓から覗く手入れのわるそうな庭や、細く汚い川をぼんやりとながめてい
た。たっぷりとしたカーテンの隙間から漏れる日の光、白っぽい部屋に溜まる。西峰さ
んは小さく小さく萎んで、そのしなやかな皺の中に心地よく眠った。私は白い布団の小
さな膨らみを眺めていた。ベットの上に広げられたままの下着や靴下を一つにまとめて
小引出しの上に並べた。西峰さんの小さなからだに掛かる白い布団はヘニャリと柔か
く、わずかに湿っているように思えた。私も昔、こんな布団で寝ていたように思えた。
部屋は、じんわりと温かく、何処かに沈んでいく様な気がした。
 
 母は、四十台後半でタクシー運転手をしていた西峰正治さんと再婚した。正治さんは
母よりも5つ年で初婚だった。身内といえば、特養に預けられている西峰より子さんが
唯一の身内とのことだ。そんな感じで、誰に反対されるわけでもなく、特に祝福される
わけでもなく、2人は暮らし始めた。母は、長年勤めていた小料理屋を辞め、近くの惣
菜屋でパートをはじめた。

 母が、私の父と離婚をしたのは、私が小学校の低学年にいた時分だ。その頃のことは
あまりよく覚えていない。毎日こわいばかりであったような気がする。家に帰ると、厚
手のカーテンは締めきられたままで、その薄暗い部屋の中で母はいつもぐったりと横た
わっていた。空気は湿っぽく濡れていて、私を恐いような妙な気分にした。

「ただいま」
と小さく言うと、母は大抵ゆっくりと身体を起こす。疲労した顔に力のない笑顔を浮か
べて、
「おかえり」
と哀し気な声を漏らす。そして私の手を握ったり、私を抱きしめたりする。体は柔か
く、温かくて、母の匂いがした。私の小さな胸に顔をうずめ、湿った吐息を吐く。吐息
は、吐いても吐いても際限なく出てくるような気がした。
「サッちゃんってお父さんに似てるね、こうしているとお父さんといるみたい」
などと言う。そんな事をとりとめもなく続けて、そのうち目に涙を溜めたりした。母が
きつく抱くのがこわかった。

 西峰さんは、愛想がなく、無口で物静かある。ただ、小さな身体とは、裏腹に食欲だ
けはあるのだ。食べ物のこととなると西峰さんの静まりかえった表情に微かな笑みがこ
ぼれた。普段ほとんど口をきかない西峰さんと初めて言葉らしきものを交わしたのも朝
食の時分だった。どこというわけでもなく食べ物の匂いが湧くように漂い、ステンレス
の台車に二列に並んだ朝食が運ばれてきた。西峰さんは、布団の中からリモコンを不器
用に探り出し、ウィーンといういかにも機械的な音とともに上体を起こした。小さな穴
のような目を湿らせ、喉をゴクリと鳴らす。朝食はクリーム色したプラスチックのト
レーやお皿に乗せられていた。大きなコッペパンが2切れ、イチゴジャム、マーガリ
ン、薄くスライスしたキュウリ5枚、マヨネーズ、熟したバナナ1本。牛乳は、蓋のし
まる小さなプラスチックの容器に入っている。その突起した部分から口をつけて吸える
ようになっていた。
「ここは味付けが本当に上手ですからね、美味しくて、美味しくて、この時間がアタシ
は一等楽しみですよ。三波春夫も好きだけど、やっぱり食べることが一等好き」
西峰さんは、なにか憑かれたように喋り、薄い皮膜を染めた。大きなコッペパンを震え
る小さな手でしっかりと握ってムシャムシャと音をたてて食べはじめた。噛んでいるの
か、ただ湿らせているのか、上顎と下顎を上下に大きく動かしながらコッペパンを飲む
ように食した。牛乳をカプカプと飲み、キュウリをツルルと吸い込んだ。バナナを口
いっぱいに放り込み、朝食を終えると、何事もなかったようにベットを平な位置に戻し
て小さく小さく縮む。

 七夕の日だった。私は小学生で、2年生くらいだった。体育館に大きな竹が2本運ば
れ、舞台の両脇に立て掛けられた。開け放たれた扉から入る7月のふんわりとした風に
笹の葉がサラサラとかすれるような音をたてた。先生は色違いの色紙を一枚づつ配っ
た。私に配られた紙は深いブルーだった。教室内は楽しげな空気で満ちていて、思い思
いの願いに心を巡らしていた。私は紙を隠すように手で覆い願いごとを書いた。一つ目
を書いて、その隣に
「スイゾクカン ニ イキタイ」
と書いた。水族館に行きたかったのか、水族館が好きだったのか、覚えていない。理由
など無く、一つ目が哀し気なものだから、なんとなく書き添えてみたのかもしれない。
数日後、夜遅くに担任の教師がアパートを尋ねて来た。母とすこし話し、私に宿題を忘
れないように、と忠告して暗い夜道を帰っていった。母に、理由を尋ねると、PTAの
ことでちょっと、と言葉を濁した。

 母は、よく西峰さんにちょっとした土産を包んで、面会に出かけた。仕事のない日曜
日などに私が暇そうにテレビでも見ていると、母は煮物やお浸しなどをこしらえて、
持って行くようにと言った。はじめのうちは、気持ち悪いような照れくさいような心地
だった。そのうち暇でも暇でなくても、母がこしらえた煮物やお浸しなどをつまみなが
らセカセカと支度をして、西峰さんに会いに行くようになってしまった。

「こんな年寄りの所にねエ」
と西峰さんの向かいのベットで暮らすカツさんは言った。西峰さんは母がこしらえた里
芋の煮っころがしをプラスチックのフォークで懸命につついていた。口をポカンと開け
たかと思うと、
「あんたの母親は、料理が上手で、上手で、正治さんは幸せものです」
と言う。里芋を口に入れ、ネトネトとやる。ネトネトとしばらくやってゴクリと飲む。
「はやく結婚しなきゃあ、いけないヨ。結婚は第二の人生だから、結婚はいいもの、い
い人と結婚しなきゃア駄目ヨ」
カツさんはそんな話が好きだった。カツさんは幼い頃にブラジルに移り住み、30年間
をブラジルで過ごした。
「主人とはね、それが不思議なことに縁があったんでしょうねえ、キューピットです。
ブラジルにはコーヒーを飲ます場所が在るんですけれど、そこで主人とはじめて出会っ
た。目が合って、似た様な顔があるなって、以前にも何処かでお会いしましたねって、
言われて、その一言でその日から暮らし始めたの。不思議でしょう?でも、それだけ
よ。」
 カツさんはよくブラジルの話をした。話し始めるとなかなか終わらない。終わらない
話についつい引き込まれてしまう。
「ブラジルはいいわよオ。だって、着物を縫わなくていいでしょう、だから最高なの。
気候も一年中いいし、さわやかで、温かくて、あなたも、気候がよい所にお嫁に行かな
くちゃ駄目ヨ」
聞いているのか、いないのか、西峰さんは不気味な薄ら笑いをケ、ケ、ケ、とやって後
はお茶をすすったりする。カツさんは、そんな西峰さんを峰ちゃん、峰ちゃんと呼んで
いる。
「峰ちゃんはね、ぜんぜん私とはタイプが違うんだけど、私のいいお友達、いつも私の
話をヨオーク聞いてくれるもの、こんなにヨオーク聞いてくれるのは峰ちゃんだけヨ」
西峰さんは、またケ、ケ、ケ、とやる。
「私はとにかく金キラキンで派手なのが好きなんだけど、峰ちゃんは地味ヨ。峰ちゃん
は、地味、地味。派手なものは嫌いだもの。洋服だって、注文するんでも、なんだか男
みたいな、下着みたいな地味なものばかり選んで、私が赤やオレンジがいいワヨなんて
言っても、首を横に振るばかりでショ。ブラジルではね、旦那と寝る時には、派手な物
をつけなさいっていうの。裸で寝る人も多いみたいだけど、まあ、そう教育されるの。
それで年をとったら、旦那の若返りの為に赤い下着をつけた方がいいって、しめるよう
な紐も赤いような派手なものにしなさいって。不思議なのヨ。老人ホームなんて色気も
へったくれも無いと思っていたけど、お婆さんもお爺さんも色気はたっぷりなのよ。男
と女なんていくつになっても色気が憑き物みたいにとれないノ」
とニコリとやる。笑うと金歯がキラリと光る。

 何日かして母は今度の休日に水族館に行こうと言いだした。私が黙っていると、行こ
う、行こうと言って、私の髪を撫でた。水族館は日曜日にもかかわらず人が少なかっ
た。水層の中には色々な種類の魚が漂い、不思議な形をした生物が暮らしていた。私た
ちは水槽に張り付くようにして水族館を眺めて廻った。小さな会場では、アシカの
ショーが行われていた。人が少なく、寂しげだった。それでも母はずいぶんとはしゃい
で見えた。ドーム型をした水槽の中央に在る皮のソファに座って母が買ってくれたソフ
トクリームを舐めた。舐めおえると、水槽の中をゆらゆらと漂った。同じところをぐる
ぐると廻っているだけなのに、飽きもせずにゆらゆらと漂っていた。

「私、魚に生まれてくるんだった」
母がポツリと言った。
「うん」
「こんな狭い水槽に住む魚じゃなくて、もっと温かくて、ずっと広いところに住むの」
「うん」
「ごめんね、母さん駄目みたい、イロイロ駄目みたい。ごめんね」
「そう」
なんで私に誤るのか不思議だった。不思議に思っただけで、言葉にならなかった。哀し
いような、哀しくないような、モヤモヤとした渦が溜った。涙は流れなかった。ゆらゆ
らと漂っていたから気がつかなかったのかもしれない。母は私の手を握った。しかし、
漂っているとその感触はあまり伝わってこなかった。私は無表情にゆらゆらと水槽の中
を漂うだけだった。
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by holly-short | 2007-01-01 10:30 | short story

価値感の揺らぐ時

 近所にできた激安ショップに近頃どうしても足が向くのだ。仕事帰り、しばし迷って、商店街を
通らずに、迂回して激安ショップに足が向く。理由は、簡単。もちろん安いから。例えば卵、通
常だったら200円くらいする卵が130円くらいで売られている。「ああ!安い」と心の声が言う。エ
リンギだって安い。私はエリンギが大好きで、毎回買う!ベーコンと一緒に炒めて食べるると、と
ても美味しい。夜、食べるときはニンニクもたっぷり入れる。お馴染の八百屋で買うと1パックに
2本か3本入って130円くらいするのだが、激安ショップにかかれば、8本くらいビニールにどか
どかと突っ込まれて90円。勿論、買う。野菜、果物、お魚、お肉、トイレットペーパー、お菓子、
お米なんて驚異的な安さで、なにもかもがちょっとずつ安い。安かろう、悪かろうって言葉もあ
るけど、そんなこともなく、それなりだから困る。グレープフルーツやアボガドなどは、他と比べ
てもとびきり美味しかったりもするから、なおさらだ。勿論、いつでも混んでいて、駐車場なん
かも満員御礼。しかし、私は自転車なので、駐車場で待たされることはない。
「ね、ほらすごーく安いでしょ。」
休日、一緒に買い物にきた夫に私は、自慢気に言う。
「うーん、、確かに。でも、ちょっと下品なお店だね。僕みたいな高級な人間にはこの雰囲気合
わないよ。」
「へえええ?なに言っちゃってるの?本気?安いものは人一倍好きなくせに、いまさらそんなとこ
ろで上品ぶらなくたって、」
私は、店内をまわり次々と商品をカゴにいれた。なんで夫は、いつもこういうお店に来るとそん
なことを言い出すのだろう?私は、不思議でしょうがない。この間、ドンキ・ホーテに行った時
も、人種が下品だとか、店内に入ると知能指数が下がるような気がするとか、真顔で言うもん
だから、私にはギャグなのか本気なのか、それすら、解らなくなる。確かに金髪のネーちゃん
や、高速道路で箱乗り?って今でも言うのかな、でもしてそうな目つきの悪い若者も大勢来て
るけど、それが何?って思っちゃう。同じ人間じゃん。みんな安いものが好きなのよ!と私は言い
たい。そーいえば、そんな目つきの悪そうな兄ちゃん3人組にこの間パチンコ屋の前で跳ねら
れたんだった。アメ車でパチンコ屋にでも向かう途中だったのかな。シボレーのアストロ。で
も、それがすんごく可笑しくて。だって、車から降りてくるなり、「大丈夫?っすか?」って声を大
にして叫ぶんだもん。3人揃って。その様子がチビッコギャングみたいでカワイクて可笑しかっ
た。私は道にぶっ倒れたままの格好で、とりあえず「大丈夫なわけねーだろ!」ってー気分に
なったけど、起き上がってみたら全然大丈夫なので、逆にビックリしたのだ。平謝りで、「大丈
夫?っすか?」を連発「病院行った方がいいっすよ。」なんて、いまにも担いで連れて行ってくれ
そうな勢いだったけど、本当に大丈夫だったので、お断りして、念の為、免許証だけコピーさせ
てもらった。
激安ショップで買い物すると、ちょっと後ろめたいような気分になるのは、以前通っていた商店
街に殆ど足が向かなくなってしまうからだ。近所の商店街には、私がよく行く八百屋、魚屋、
豆腐屋、肉屋がある。確かに、鮮度や質は、商店街の方が随分よい場合が多いのだけど、い
かんせん高くつく。それに各店舗を巡らなくちゃいけないから、よくも悪くも手間がかかる。そ
れに乳製品や洗剤、商店街に置いてないものなどは、別途、スーパーに買いに行かなくては
いけないところも、面倒だ。それでも、仕事帰りの疲れた私を「お疲れ様―」と元気に向かえて
くれたり、ちょっとした会話が弾んだり、その日の気分でサービスなんてこともあったりするか
ら、私は商店街での買い物が大好きなのだな。ちょっとした会話といえば、一度肉屋で、コ
ロッケ、メンチカツ、トンカツなどを大量に購入した際に、パートの明るいオバちゃんが、それら
をワックスペーパーに包みながら、「チビチャン達が家で一杯待ってるんだねー」ってニコヤカ
に言われた時には、ちょっとビックリした。私は、たまに大量に揚げ物を買い込み、お弁当用に
冷凍保存しておく。チビちゃんなど一杯どころか、一人もいないのだ。ふーむ、私は、大量
の揚げ物をモリモリ食べる年頃のチビちゃん達が食卓で輪を作って待っていてもおかしくない
年令なのだな。とちょっと感慨深いような、そんなチビちゃんがいない自分が寂しいような複
雑な心境になったのだ。横から肉屋の奥さんが、「彼女はまだ若くて、子供はいないのよ。」な
んてフォローにそのオバちゃんも気まずそうに「ごめんなさいね、」と謝るもんだから、私はさらに
気まずい気分に、苦笑いするしかなかった。商売に、口は災いの元って奴かな。八百屋の奥さ
んは、私がいつも大量に野菜を買い込むもんだから、いつも誉めてくれる。「その年なのに、毎
日毎日料理して、偉いわねー」とか「野菜好きには、美人が多いって言うけど本当だねー」なん
て、私はまんざらでもない気分になって、もっともっとと野菜を買い込むのだ。旦那にそれを話
たら、「馬鹿だなー、それは、殺し文句だよ。誉めて、もっと野菜買ってね!ってことでしょ。」な
んて言われれば、そうかな?と、、、、いやいや私だってはじめからそれは解っているのだよ。そ
れでも、嬉しいのだからいいじゃないか。と、開き直る。誉め上手は、商売上手なのだ。そん
なささやかな人間関係が築けるのが商店街のいい所なんだけど、いざ一時行かなくなると、
ささやかな人間関係があるだけに、後ろめたい気分になって、足は遠のいてしまう。そのうち行
くよーなんて思いながらも。なんとなく行き辛くなっちゃうのだ。

そして、本日も例のごとく激安ショップにご来店。380円の折りたたみパイプイスをゲット、
ベランダに置こうと胸を弾ませる。ふん、ふん、ふん、などと鼻歌を歌いながら買い物をし
ていたら、突然目の前で「ボン」という鈍い音。見ると、なにか黒い物体が天井の方から落下し
てくるじゃないか。硬くラミネートコートされた床にボテッ、って感じで落ちてきた。私は、なんだ
か嫌な予感で、身体が硬直した。なんとなく、その柔らかそうな物体がなんだか解ったか
ら、、、、。恐る恐る、それに近づくと、ひっくり返って足をビクビクと震わせている。なんだか私
は、いた堪れない気持ちになったものの、なす術がない。店員さんに知らせねば、と思ってもま
わりには誰もいない。私は、とりあえず、大きなダンボール箱を取ってきてひっくり返ったスズメ
をやさしく起こしてみた。やれることといったら、それくらいしか浮かばなかった。スズメの足は
よろよろとして、立ち上がることが出来ず、開脚状態のまま胴体を床にペタリとつけ、小刻みに
震えている。半開きになった羽根は、折れているのか、うまくたためないようだ。「お願い、ダン
ボール箱の中に入ってよ、」と語りかけるものの、もちろん反応はない。私は、手掴みでスズメ
を掴む勇気もなく、とりあえず目立つようにと、ダンボール箱をスズメの横に置き、その場から
離れた。きっとお店の人が気づいて、どうにかしてくれるだろう。又は脳震盪を起こしているだ
けで、そのうち元気に飛び立つかもしれない。などと、とりあえずいい様に考えるしかないでは
ないか。店内の高い天井を見上げると透明のプラスチックの仕切りが張りめぐらされている。
店内に迷い込んだスズメはその透明ボードに真っ直ぐ激突したのだ。「ボン」という鈍い音は、
随分大きく聞こえたから、かなりのスピードで頭から突っ込んだに違いない。そして、まっさかさ
まに床に落下した。私は、買い物をしていても、胸がそわそわして、落ち着かず、スズメの様
子を伺いに何度も落下地点に戻り、とりあえず現状確認した。しかし、確認しても、確認して
も、状況は変わらず、放置されたダンボールも、身動きのとれないスズメもそのままだ。私の
置いたダンボール箱が逆に目立って、その下で小さく身を震わせるスズメに気がつかないの
だろうか。そのうち、ショッピングカートに満タンの商品を詰め込んだ耳にピアス、金髪、小太
り、下げパン?気味の和製ラッパーもどきの若い男の子がなにも知らずにズンズンズンとダン
ボールの方向に進んでくるではないか。ペットフードに気をとられ、そのままダンボールに衝突
する勢いだ。
「あー、ちょっと待って、」
思わず声が出た。
その瞬間ダンボールとカートは衝突し、その勢いでスズメは一瞬低く飛び立った。しかし、飛
行は不安定でよろよろとドックフードの商品棚に足を開脚したままの状態で胴体着地。ラッパ
ーは厳つい顔に、驚きの表情を浮かべ、呆然としていた。
「そこにスズメがいたの。上のパネルに衝突して、動けなくなっちゃってたみたいで、」
「うわー本当だ。スズメだ。誰か店員さんを呼んできた方がいいんじゃないですかねえ。」
「それが、誰もいなくて、」
和製ラッパーは、ショッピングカートを置いて店員を探した。酒売り場のレジの若い男性に、そ
れを伝えると「僕は、酒屋の職員で、ここのお店の人間では、ないので、」と他を当たれと言わ
んばかりの対応。「ちぇ、まったく役に立たねえー奴」ラッパーは、舌打ちして、声を大にして
シャウト。私も「そうだ、そうだ、」と声にならない応援をラッパーに送る。かなり離れた所で、プ
ラスチックのショッピングかごを整理している警備員のお爺さんを発見したので、私は単独彼
のところまで、いって訴えた。「雀が店内にいるんです」と。しかし、彼はニッコリ笑って、「まだい
るのかあ。そのまま放っておいていいですから、気にしないでください」などと宣う。「あのお、
ケガしていて動けないみたいなんですけど、出来れば、、」「大丈夫、大丈夫、そのままにして
おけば」と少し不機嫌そうになる。大丈夫じゃないから、訴えに来てるのに。私は彼を諦め、他
の人を探した。あーもうやんなっちゃう、やっぱり激安ショップだけに店員をケチっているのだろ
うか?お手すきの店員はまるで見当たらない。一旦、スズメのところに戻ると、ラッパーがスー
ツを着込み首から激安ショップのタグをぶら下げた有望そうな男性職員をゲット。「ブラザー!
やるう、」と私は心で彼にハイファイブした。しかし、彼も、雀を目の前に困惑気味なのだ。雀
はたたみきれない羽をぎこちなくバタつかせている。羽が折れてしまっているのかもしれな
い。店員の男性は、ちょっと待っていてという風に人さし指を立て、どこかにいってしまう。ラッパ
ーと私は、ささやかな不安とともにそこに立っていた。たまたまその場に居合わせたわずかな責
任をちょっとずつ抱きながら。結局、店員の男性が連れてきたのは、さっきの警備員のお爺さ
んなのだ。私は、ちょっと腑に落ちないといった冷静な視線を彼に投げかけ、ぐったりしてきた
スズメを早くどうにかしてあげてほしいという懇願の気持ちを込めて、スズメのいる場所を指し示した。
「おう、こんなところにおったか。」おったかってさっき言ったじゃん。なんて私の気持ちは余所
に、彼はとても冷静だ。何食わぬ顔でスズメをひょいと手にとり、ふんばりが効かない足の様
子や、中途半端に開かれたスズメの羽根を注意深くチェックした。なんだ、こんな詳しいのな
ら強引に、断固早く呼ぶべきだったではないか。しかし、彼は難しそうな顔を浮かべて、「こ
りゃあ、もう駄目だな。骨も折れてしまってる。かわいそうだけど、」と首をすくめた。ラッパー
も、従業員の男性も、私も、その様子をただただ眺めていた。その瞬間、私は目を疑っ
た。警備員のお爺さんは、スズメのことを手で包むようにして、一瞬で首を折ってしまったか
ら。まるで割り箸を2つに割るみたいなポキッっという軽快な音とともに。一瞬で、スズメは、あ
ちらの世界に逝ってしまった。お爺さんの手の中で、もう震えたりも、羽根をバタつかせたりも
せず、横たわっていた。お爺さんは、何も言わず、その小さなボディーをダンボール箱の中に
そっと置いた。仕方がないね、という風に肩をすくめ、元いた場所に戻っていった。スズメの亡
骸の入った段ボール箱を大事そうに抱えて。残された私たちは、無表情に顔を見合わせ、それ
でも言葉を発することなく、それぞれの方向に分かれた。私は、そのことを何故か夫にも話し
ていない。あの瞬間、あんなにも衝撃的だったのにもかかわらずだ。夕飯にはバンバンジーを
食べた。鶏肉を蒸して、大量のキュウリの千切りを添え、胡麻ダレであえた中華風のお惣菜。

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by holly-short | 2006-06-08 22:37 | short story

シュークリーム

 キッチンからはバターの焼けるいい匂いが漂ってくる。私は、子供達にあげる小さな
バックたちに急いでミシンをかけ、自分の手際の悪さに、もっと早く終わらせておくべ
きだったと反省した。あと10分程でクッキーは焼き上がる。この分だと、約束の10時
までに誕生日ケーキを取りに行かれない。電話してピックアップを11時に変更しなく
ては、それとも誰かにピックアップを頼むしかないかも、、、、。女の子には花柄、男の
子にはストライプの英国製の生地で、小さなバックを10個ずつ作り、中には小さな
玩具と手作りチョコチップクッキーを入れる予定だ。部屋のデコレーションは昨日の
夜、娘と夫に手伝ってもらって、ほぼ終わっている。天井から三角に切り抜いた色紙や
HAPPY BIRTHDAYの文字がぶら下がり、サイドテーブルや食卓には、赤いテーブル
クロス、花瓶に生けた小さな花束、青いプラスチックのカップ、紙皿、ミニカーが沢山
プリントされたカラフルな紙ナプキンなどが所狭しと並んでいる。DEAN & DELCAで
注文したオードブルはカウンターで待機、サラダはドレッシングをかければいいだけ
だし、ズッキーニとトマトのパイも朝一番で焼きあげた。
「マーマ」
玩具で遊ぶのに飽きた娘は、私のシャツの裾をひっぱってくる。
「なあに、ママは忙しいのよ。あなたの誕生日パーティーの準備をしてるのよ、お願い
だから、あっちでムースと一緒に遊んで来てちょうだい。」
などと言っても、2歳になったばかりの娘は、聞く耳などもつはずがなく、老犬のムース
にしたって居間の隅にある犬専用の小さなソファーで小さな寝息をたてて熟睡中だ。
私は、仕方なく、足にまとわりつく娘をそのまま引きづるようにして、オーディオセットの
所まで連れて行き、今だけは大人しくしていて、と祈るような気持ちで「アンパンマン」の
DVDをセットした。娘はあっさり、アンパンマンのテーマソングに合わせて身体を上下に
揺らし、テレビの画面に集中しはじめる。最近、私は思うのだ。「アンパンマン」は偉大だ
って、いつでも望めば現れ、救世主のように私を救ってくれる。娘の誕生日ケーキも、
ひとっ飛びして取ってきてくれると助かるのに、、、、、それなら、ジャムおじさんに誕生日
ケーキを注文するべきだった。なーんて、ケーキはフランス帰りのパティシエが営む評判
のケーキ屋に注文したのだ。ケーキはいつもここと決めている。電話をして、ケーキの
ピックアップが11時になってしまうことを伝えた。
「それでしたら、お宅にお届けすることも出来ますが、」
と女性の店員は事務的に言った。
「それなら、申し訳ないけど、届けてもらえますか?」
「解りました。お届けは12時過ぎになりますが、構いませんか?」
「問題ないです。よろしくお願いします。本当に助かります。」
12時前にはゲストが集るけど、ケーキは食後に食べるのでむしろ好都合だ。キッチンで
タイマーが鳴った。タイマーの音にムースが飛び起きて、キャンキャンと小さく吠えながら
玄関の方へ走り去っていった。チャイムと間違えて、誰かお客が来たのだと思っている
のだ。クッキーも焼き上がった。娘は「アンパンマン」に夢中になっている。後は、私が小
さなバックたちを完成させればいいだけ、私は必死でミシンと向きあい、最後の仕上げに
取りかかった。

 11時半を過ぎた頃、次々とゲストが現れた。私が通うヨガ教室や、料理教室のお友達と
その子供たち、ご近所のお友達、娘の英語教室のクラスメートたち、私が子供を出産
してから知り合った同じ年頃の幼児を持つママ友達たち、みなそれぞれが素敵なプレ
ゼントをもって娘の為に集ってくれた。立食スタイルで、並べられた軽いランチを食べな
がら、「このパイ美味しいわ、」とか「素敵な誕生日会ね、」とか、お褒めの言葉に酔いし
れる暇もなく、私は、友人らに挨拶して廻り、パーティーへの参加とプレゼントのお礼を
し、ジュースやミネラルウォーターを冷蔵庫から取り出し、子供質が床にこぼした食べ物
をムースが食べてしまう前に片付け、ミルクを温めるためのお湯を沸かし、遅れてやって
きたゲストを迎え入れ、おしめを代える場所を案内し、息つく暇もなく動き廻った。そんな
最中にケーキは到着したちょうど一通りランチが行き届いた頃で、タイミングはばっちりだ。
玄関には、長く白い帽子を被ったパティシエの男性が大きな白い箱を胸に抱えて立って
いた。子供達はワッと歓声をあげて、彼を取り囲み、私はその勢いで転んで泣き出した
女の子を抱え上げ、泣き止まない彼女をなだめた。
「あの、よろしかったらケーキをお切りしましょうか?今は昼休みの時間で、ちょっと余裕が
あるんです。」
とその男性はいかにもパティシエといった甘い笑顔を浮かべた。
「本当ですか?でも、その前にバースデイソングを歌わなくちゃイケナイし、ロウソクをさし
たり、吹き消したり、しなくちゃいけないんですけど、、、、」
と申し訳なそうに言い、その間も泣き止まない女の子の髪をなでる。
「おまかせください。専門家ですから、」
とパティシエは、変わらぬ甘い笑顔で力強く頷いた。
彼のおかげで、誕生日パーティーは、バースデーケーキの登場と共に最高のクライマックス
を迎えた。揺れるロウソクの光とともに、キッチンから登場した彼は、バースデーソングの
音頭をとり、なかなか成功しないロウソクの吹き消し作業を手伝い、ケーキ屋のショーケー
スに整然と並ぶカットケーキみたいに美しくケーキを切り分けて、去っていった。その後も、
パーティーはしばし、にぎやかに続き、雰囲気もよく、子供達は元気に走り回り、私は相変
わらず忙しく動き廻った。3時を過ぎた頃から、ぽつぽつとゲストが帰宅しはじめ、何人かが
片付けを手伝ってくれて、夕方ごろには完全にお開きとなった。私の作った小さなバックた
ちも、皆それぞれのお家に持ち帰られた。私はすべてが終わり、すっかり元通りに片付い
た我が家を見回し、まるでポッカリと穴が空いたような気分とともに、どっと疲労感が押し
よせてきた。しかし、全てが滞り無く進行し、楽しい時間を共有出来たゲスト達の様子を
思い浮かべ、それは私に深い充足感をもたらした。娘は疲れ果てて、ソファーの上で寝て
しまっている。まだ2歳になったばかりの娘には、誕生日というものが自分にとって一体
どんな日であるのか、いまいち解らないみたいだ。ただ、プラスティック製のティアラも、
お手製のドレスも、とっても気に入ってくれたし、自分の為に持ち寄せられたプレゼントも
時として自分に集中する注目も、今日1日限りの特別扱いは、彼女の気分をとても良く
したみたいだ。私はそのまま、ソファーに横になり、娘とともに仮眠をとって、その後ムース
の散歩を手早く済ませ、夕食の支度にとりかかった。チャイムが鳴り、寝ていたムースが
よろよろと玄関に向かう。誰か、忘れ物でもしたのかしら?などと思ったが、そうではなく、
若い男の子が玄関に立っていた。よく見ると、昼間にケーキを運んでくれたパティシエの
男性だった。
「あの、まだ御代をいただいていなくて、」
ダンガリーシャツを着て、ジーンズを履いた彼は、昼間の白い衣装に身を包んでいた時
とくらべて、ずいぶん幼く見える。まるで別人みたいに。
「ごめんなさい。私もすっかりお支払いのこと忘れていたわ、昼間はとってもあわただしか
ったから、」
と請求書にある代金を支払った。男性は料金を確認し、領収書をくれた。
「あの、これよかったら食べて下さい。売れ残りですけど、品質にはまったく問題ありませ
んから、」
と小さなケーキの箱をくれる。私は再びお礼を言い、箱を受け取った。箱は思ったよりも
軽くて、ひんやりしていて、中にはシュークリームが4つ並んでいた。
「シュークリーム」
と私は口にだして言ってみる。そして、あるイメージを思い浮かべる。床に叩きつけられ、
無残に潰れたシュークリームのイメージ。薄いシューは破れ、カスタードが床に飛び散っ
ている。そう、私は怒りにまかせて、シュークリームを床に叩きつけた。容赦なく、思いきり
母を罵倒する言葉と共に。たぶん、「ふざけるな、こんなものいらねーんだよ、」とか
「こんなもので、誤魔化すんじゃねえ、」とか、そんな類いの今あらためて書くと、空しく
なるような可能な限り暴力的な言葉を選んだ筈だ。姉は冷たい視線で私を見ていた。
母は泣きながら、潰れたシュークリームを片付けた。私は謝らなかったし、その必要も
感じなかった。きっと私は、泣く母を尻目に2階の自室に引き籠り、少なくとも2、3日は
母と口もきかなかっただろう。14歳の誕生日を迎えたその日、母はちょうど自分のこと
に忙しく、いつもは必ず準備してくれたバースデーケーキを忘れ、もしくは忙しさの末
いた仕方なく、もしくは大きな娘にもう仰々しいバースデーケーキなどは必要と思わず、
駅前のチェーン店で小さなシュークリームを買って帰って来た。まるで、スーパーで
今夜のお惣菜を買うような、そんな調子で、、、、、、、。私はけして、誕生日のケーキ
がなかったこと、その代わりとしてシュークリームを買って帰って来たこと、そのことのみ
に怒りを感じたわけではない。そして、多分、運も悪かった。今日、たまたま運良くパティ
シエがバースデーパーティーを素敵な演出で盛り上げてくれたみたいに、、、、偶然に。
いろいろなことが、積み重なり、蓄積していた。その年頃の少女が時として、そうなよ
うに、私は孤独だったし、寂しかった。そして、まるでその象徴のように私の元にやって
きた、なんてことのないシュークリームに私の不幸が集約されている様な気がしたのだ。
潰れて中味の飛び出した無惨なシュークリームの死。私は自分自身に真剣そのもの
だった。私が感じた怒りも、寂しさも、むなしさも、発せられた暴力的な言葉の数々も
私自身そのものだった。あれから、10年以上がたった今日、娘の誕生日パーティーで
発したどんな言葉よりもずっと、、、、、、、、。娘が目を覚まし、小さなかわいらしい欠伸
をしながら、私を探しにやってきた。
「ねえ、ほらシュークリームよ」
私は、娘の小さな手のひらにシュークリームを乗せてやる。娘は嬉しそうにシュークリーム
に顔を埋めるようにしてかじりついた。小さく空いたシューの穴から、とろりとしたカスタード
クリームが流れ出てきた。

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by holly-short | 2006-05-17 23:27 | short story

MONACO

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そこは薄暗くて、空気が澄んでいて、心地よい音楽が漂うような感じで流れていた。
小さな話し声やグラスやカトラリーの重なり合う音がまるでその空間の一部みたいに
沸いては、たたずみ、沈められていく。私たちは、「モナコ」というバーで待ち合わせた。

ひと頃、まだ私たちがこの空間にしっくり馴染んでいた頃、、、、、少なくとも私はそう
感じでいたと思う、、、、、よく立ち寄ったバーだ。平日の仕事帰りや、休日にディナー
を楽しんだ後に、吸い込まれるように引き寄せられた場所。存分にオシャレをして、
またはスーツに身を包み、私達は美味しいお酒を飲み、スペインの生ハムやフラン
ス産のチーズなんかを摘みながら、とりとめもなく話し、心地よく酔った。それは、
まるで街と一体化するような錯覚を引き起こさせた。

今日の私は、まるでこの空間とはチグハグな気がしてならない。パンツもアンサンブ
ルのニットもシンプルなことだけが取得みたいな代物だし、ブローする時間の無かっ
た髪はひとつにまとめてクリップでとめてあるだけ、腕時計もアクセサリーも時を経て
くすんでいるように思える。左手の薬指に収まるエンゲージリングもよくみると小さな
傷がたくさん刻まれている。結婚したばかりの頃は、家事や入浴のたびにいちいち取
り外していた指輪も、今ではもう外さなくなった。まるで夫が、もう指輪を身につけな
くなったみたいに。

約束の時間が来ても芳(カオル)は来ない。昔から芳は、人を待たすのが得意なのだ。
私は、人を待つのは嫌いじゃない。考え事をするのに調度いい時間だ。しかし、今の
私には考えなくてはいけない懸案事項が山程あるような気がしてならない。
なにをまず考えれば良いのかも解らない程に、、、、、。それは昔みたいに自分自身
だけの為に向けられた贅沢なものではなく、もうすぐ2歳になる息子のことや、夫の
こと、仕事や、夫の両親との関係など、ひっくるめて猥雑とも思える物事についてだ。
私は自分の爪にマニキュアも塗られていない事実にびっくりした。爪は短く切り揃え
られ、簡素な様子で指先に並んでいる。爪のまわりの皮膚がささくれている。ネイル
サロンに最後に行ったのはいつだろう?、、、、と考え、今すぐにも、バーを飛び出し、
デパートの化粧品売り場に行ってマニキュアを購入したい、という衝動に駆られた。

「おまたせ、英子。」
芳は、少し息を切らせ、夜の冷たい空気に包まれるがままに店内に入ってきた。バー
カウンターの私の隣のストゥールに腰掛けて、バーテンに生ビールを注文した。
「ごめんね、ミーティングが長引いちゃって、、、、、来月から取材でキューバに行くの
よ。今はその準備で大忙しなの。」
と肩をすくめる。
ぴったりと身体にフィットしたベージュのワンピースは、複雑なカッティングが施され
ている。ウッドピースや大きめのビーズが数珠みたいな繋がった長いネックレスが
とてもよく似合っている。薄茶色の鞣革のヒールはルブタンか、ミュウミュウのもの
だろう。もしかしたら私が聞いたこともないようなブランドのものかもしれない。芳
は、旅行雑誌の副編集長をしている。小さな編集社だが、クオリティの高い雑誌
をいくつか発行していて、ある特定の購買層を獲得している。生活をテーマに、
旅行、料理、ライフスタイルなど、、、、、どれも洗練され、個性的でありながら、
実用的でもありそうに思える情景。そこには、手が届きそうで、届かない世界が広
がっている。

「ルカ君は、元気?」
ルカはもうすぐ2歳になる私の息子だ。
「元気よ、この間は大熱を出して大変だったけど、男の子には多いみたい。でも、
とても元気、元気すぎるぐらい。キューバにはなにしにいくの?羨ましいわ。仕事で
キューバなんて、」
芳は冷たいビールを美味しそうに飲んで、ゴルゴンゾーラのピッツァを注文した。
「そうねえ、でもお仕事だもん、大変よお。うまくいかないことばかり、言葉は通じ
ないし、日本みたいにきっちりしてないから、苦労してアポ取っても、あってないよ
うなものだったり、調整、調整の連続で、てんてこまい。それでも、色々な分野の素
敵な人たちと出会えるのは楽しいわね。今回は、キューバの音楽とか、ダンスとか
がテーマなんだけど、私全然そっち方面に知識がないから、朝から晩までサルサを
かけて気分を盛り上げてる。信じられる?」
芳はジャズ専門なのだ。
言われてみれば、芳の装いにはどこか南米のムードを感じさせる。
知的なラテン女のように、清潔で、無駄が無く、肉感的だ。

私たちは焼きたてのピッツァを頬張り、カラマーリのフリッターと自家製のピクルスを
つまみながら、昔みたいに話し合い、酔っ払った。それでも、私はけして昔みたいに、
この雰囲気に、溶け込んだりはしない。ふと、した瞬間に、ルカはちゃんと寝ているだ
ろうか、ぐずって義祖母を困らせていないか、突然、前みたいにひきつけを起こした
りはしないだろうか、などという根拠の無い不安が押し寄せる。私は、その度にマナー
モードにセットしてポケットに入れてある携帯電話に手を当てて、握り締めなければい
けない。お手洗いに立ったついでに、自宅に電話してみると穏やかな様子で、夫が出
た。
「おー、楽しんでる?」
「うん、ごめんね。ルカは、大丈夫?義お母さん大変じゃないかしら?」
「全然、もう二人とも寝てるよ。井の頭公園に行って、動物園に行ったって言ってたけ
ど、あそこに動物園なんて、あったけ?二人とも疲れて、もう早いうちからお風呂に入っ
て寝てしまった。」
「そう、よかった。確か、小さな動物園があった気がする。不確かだけど、、、」
「友達と飲んでるんだろ?ゆっくりしてこいよ。こっちは、俺も帰って来てるし、のんびり
やっているから、」
と、言って電話を切った。野球中継の音が聞こえた。きっとビールを飲みながら野球
観戦でもしているのだろう。バーカウンターに戻ると、芳も携帯電話で誰かと話してい
た。にこやかに笑って楽しそうに、、、、、、「じゃあ、」と朗らかに言って電話を切った。
「ルカ君に電話してきた?」
と、芳は更に朗らかな調子で聞く。
「うん。ごめんね、なんかちょっと心配で、」
「そりゃそうよ。まだ2歳にもならない乳飲み子なんだから、気にすることないし、ここで
電話すればよかったのに。私だって、彼とお話ししたいわ。」
「もう、寝ちゃってた。アチラのお母さんと仲良く、、、、、、、。」
と私は肩をすくめてみせる。
「あら、強敵ね。でも、いい義お母さんじゃない、妊娠中は一々電話してきて、
仕事を辞めろだの、ヒールを履くなだの、なかなか手強い感じがしたけど、、、、、、」
「そうね、いい人よ。とっても、、、、、。でも、だからこそ色々なことが気になるみたい。
今でも私には仕事を辞めるように言うわ。家庭が疎かになるからって、子育てだって
立派な仕事ですって、ね。どこかで聞いたことがあるような台詞よね。」
「ふーん。そりゃあ、そうだろうけど。お母さんにべったりの子育てだって、ずっと永遠
につづくわけじゃないんだし、仕事を辞めるっていうのも逆に勇気がいるんじゃない。」
「うん、そうなんだけど、最近ちょっと自信がないのよね。仕事と育児と家事の両立
に、、、、、。仕事を辞めるって、チョイスも真剣に考えなくてはいけないのかなって、
思うのも現実。なんか、すべてが中途半端になってしまいそうで、、、」
「それでいいんじゃないの?中途半端で、、、、、やるべきことのパイが増えたんだし、
親としての責任がまずあるわけだから、今までみたいに仕事に全力投球できないの
は仕方ないし、今までとは違うのは当たり前よ。子育ての責任を背負っている以上、
その責任からは免れないし、周囲の理解だって必要だわ。ただ、やっぱり仕事にだ
って責任があるのも事実、今の状況でやりこなせない内容や、重い負担は、はじめ
から断ればいいのよ。断る勇気だって、必要だし、その為には仕事の内容だって、
今までどおりとは、いかないかもしれない。でも、辞めてしまったら、それでお終いよ、
ジ・エンド、、、、、」

芳の発言はいつも魅力的だし、説得力がある。だけど、私にはどこか理想論のよ
うな気がしてならない。まるで彼女の雑誌みたいに、、、、、、、。 現実はもっと複
雑だし、猥雑なことにまみれ、時としてとても冷淡で、私はどうにもならないような
気分になる。やるべき仕事を断念し帰宅を迫られる瞬間、泣き止まないルカを託
児所に預けなくてはいけない瞬間、必要とされる瞬間に不在であるという、その現
実に、私は打ちのめされる。

この間だって、熱を出し、私に連絡がつかないと、託児所から連絡を受けた義祖
母がルカを引き取り、その帰り道にひきつけを起こした。義祖母は、混乱し、涙な
がらに通りすがりの人に助けを求め、救急車を呼んでもらって、病院に運ばれた。
赤ちゃんを扱える病院はなかなか見つからず、救急車に乗った後も、いくつかの
病院をたらい回しにさせられたのだそうだ。小さな赤ちゃんが訳も解らず痙攣して
いる様子は、きっと義祖母を想像以上の恐怖に陥らせただろう。
私は会議中で、電話に出ることが出来なかった。
それから随分経って、留守番電話を聞いて病院に駆けつけた時には、ルカの痙攣は
すっかり治まり、スーツ姿の夫と、疲れ果てた義祖母が椅子に座り、点滴をうけるル
カの様子をぼんやりと眺めていた。私は、安堵し、ルカに駆け寄って、抱きしめたい
ような気分だったが、なんとなくそれは躊躇われた。
「芳には、解らない。」
私は自分の発した言葉にびっくりした。
本来であれば、飲み込むべき言葉が、私の口から唐突に漏れて出た。芳に謝るべ
きだと思いながらも、その言葉が出ない。
「そうよ、解らないわ。」
そんな私の後ろめたい気持ちを汲み取ってか、またはそれを気にする風もなく、芳
は軽やかに言う。
「私は結婚もしてないし、子供もいないもの。でも、私だって、同じような状況に陥
る可能性はあったし、これからだってあるかもしれない。未婚の母で子供を出産す
るかもしれない。その時にね、ルカ君の子育てを参考に出来ればって思うのよ。英
子が仕事も育児も素敵にこなす母親でいてくれたらなって、どうしても思ってしまう。
友人として、、、、、。確かに、現実は厳しいし、二束の草鞋は無理かもしれない。
それでも、ここまで、どうにかやってきたじゃない。これは私の我儘かもしれないけど、
後悔してほしくないのよ。どっちにしたって、、、、、ね。最終的に選択をするのは英
子自身よ。結局は、英子の人生なんだから、ルカ君の為でも、義お母さんの為でも
無くね。」
芳の言う通りかもしれない。
私は恐れている。
周囲からの非難や中傷を、最悪の事態を、まだ見ぬ将来への不安を、、、自分自
身が傷つくことを、、、、、、。

「そうそう、ルカ君にプレゼントがあるのよ。」
と芳は、大きな鞄の中からビニール袋を取り出した。
芳は、いつも大きな鞄を持ち歩いている。
なんでも入る素敵な鞄、そこにはいろいろな物が詰まっている。
雑誌、テープレコーダー、お香、ボディークリーム、食べかけのバケットやチーズ、水
着、世界地図、、、、、、、、、。
「ほら、子供用のTシャツ。チェ・ゲバラよ。キューバの革命家で、英雄なの。これ着て
チェ・ゲバラみたいな強い男になりなさいって、、、、いい男に、、、。それと、サルサ
ミュージックのCD。もうみんな取材に行く度にくれるのよ。「サルサは最高だ。」って
言葉と共にね。」
と笑い、チェ・ゲバラの顔が大きくプリントされた小さな薄水色のTシャツと、数枚の
派手なジャケットが目立つCDをくれた。

私たちは、また少しお酒を飲んで、「モナコ」を後にした。昔みたいに手をつないで、
教わったばかりだというサルサのステップを踏みながら、駅までの路を踊るように
歩いた。


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by holly-short | 2006-05-10 00:38 | short story

アボガド

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幼い頃、アボガドはまだ高級な果物で、スーパーなんかには売っていなくて、
デパートの地下の食品売り場で、高級なフルーツと肩を並べてうやうやしく売られていた。
私は4歳か5歳で、それなりの善悪の区別はついたと思うけど、
それ以上に抑えのきかない衝動と好奇心を小さな身体に秘めていた。
マスクメロンや、カラフルで不思議な形をしたトロピカルフルーツの中で、
黒深緑色した小さな凹凸のある悪魔の卵みたいなアボカドが妙に気になり、
私の目は釘付けになった。
私は、なんでも手にとってみなければ、経験してみなければ、気がすまない質なのだった。
好奇心旺盛といえば聞こえがいいが、
幼い私には、反省が無かった。
それでも、ささやかな善悪の区別を身に付けていたので、
ちゃんと誰も見ていないことをきちんと確認してから、
好奇心に誘われるままに思わず手を伸ばしアボガドに触れた。
指肌で凹凸のあるアボガドの表面を撫で、その感触を味わう、
つるつると凹凸が入り混じったような、不思議な感触。
すこし指で押してみるとぐっと中に入り込んでいくような柔らかさ。
私の小さな指は、外側の薄い皮をいとも簡単に突き破り、
面白いようにアボガドの中に侵入した。
生温かく、つるつるとしたアボガドの果肉。
空いた穴の中から、鮮やかでクリーミーなキミドリ色をした果肉がのぞいて見える。
私はその場をそっと離れ、母親の元にもどった。
小さな穴が数個、無残にも空いたアボガドを残して、、、、、、、、、、。

「あら、ミカちゃん、どこいってたの?すぐにいなくなっちゃうんだから、」
母は穏やかな調子で言う。
きっと、私がお菓子かなにかに気をとられていたのだと思っているに違いない。
「フルーツパーラーに行きたい。」
私は、いつもみたいに言う。
母のお気に入りは、1Fにある紅茶専門店でケーキセットを食べることだが、
私はあの気取ったお店は好きじゃない。
私の唯一の希望は、フルーツパーラーに行くこと。

母はデパートに来ると、
いつもお決まりのコースを巡回する。まず婦人服売り場に行き、
お気に入りのブランドのブティックをながめる。
それらは大抵ながめるだけで、滅多に購入とまでは至らず、
それから私のお洋服を見に子供服売り場に行く。
私が「ほしい」と言うと母は私に試着させ、
大抵は買ってもらえる。
しかし、私はお洋服には、興味がない。
このベルベットで出来たいかにも少女らしいワンピースにも、
一針一針手縫いされたというフランス製の革靴にも、、、、、、。
母は、私を可愛らしく飾りたてお出かけするのが好き、ただそれだけのこと。
その後も、食器売り場、化粧品売り場など、いつもと同じルートを首尾よく巡回し、
最後に地下1Fの食品売り場に立ち寄る。
母は、外国産のチーズや、ジャム、ちょっと高いが品質はいいのだと
信じて疑わない野菜や魚介類などを物色する。

フルーツパーラーは、食品売り場の片隅にあった。
前面ガラス張りの小さな空間に、つるつるに磨かれた乳白色のカウンター、
真紅のクッションがついたスツールが10席ほど。
冷え冷えとしたガラス張りの棚の中には、
色とりどりの様々な形をした大小のフルーツが楽しそうに並んでいる。
私はこの小さな空間が気に入っている。
低く響くモーターの音も、神経質そうにフルーツを取り扱う年老いたマスターも。
マスターは、美しくプレスされた白いワイシャツに
絵に描いたみたいな黒い蝶ネクタイを結んでいる。
堅い表情は真剣そのもので、骨ばった手に、ぼってりと丸いグレープフルーツを
まるで家宝かなにかみたいに1つずつ手にとり、磨きあげていく。
「ミカちゃんは、何するの?お母さんは、そこの和菓子屋さんで贈り物を言付けてくるから、
先に注文して食べていてちょうだい。」
と言い、苺シェイクと、パパイアのバニラアイス添えを注文して、
そそくさとフルーツパーラーを出ていってしまう。
デパートでの母は、いつも忙しい。

 マスターは、ほどよく熟れたパパイアの実を両手で大切そうに取りだして、2つに切りわけた。
パパイアの鼻につく独特の香りが一瞬濃く漂う。
滑らかな断面は、鮮やかなダイダイ色で、果肉は瑞々しく濡れている。
蛙の卵みたいな、ゼラチン状の黒々と丸い種をスプーンで丁寧にすくい出し
空いた穴に、バニラアイスがワンスクープ。
カットレモンが添えられ、パパイアは礼儀正しく私の目の前に置かれる。
私はレモンは絞らず、スプーンの先端に巻きついたペーパーナプキンをはがして、
ねっとりと柔らかいパパイアの実を口に含んだ。
パパイアのトロピカルフルーツ然とした、嗅いだことのない甘い香りが一瞬鼻腔をかすめ、
すぐに消えた。

私は一口でパパイアが気に入った。

彼は、私の隣の母が座るべきスツールに腰掛けていた。
何食わぬ顔をして、当たり前のように、、、、、。
アルミ製のペーパーホルダーにささった写真つきのメニューを、
つやつやとしたキミドリ色の膜のある手で取り出し、真剣に眺めている。
私は、なんだか恐ろしくなり、とにかくもう一口という風にパパイアを口に運んだ。
パパイアの冷たく甘い果肉が口の中でゆっくりと、とろけ広がっていく。
私は恐る恐る彼を見上げる。
筋肉質で引き締まった身体、鮮やかな新緑色の皮膚は、
体毛などなく、つやつやとして、澄んだ清流のような清涼感を漂わせている。
「なに食べてんの?」
彼は突然、私の方に振り向いた。
大きな目、先の尖った口先、頭のてっぺんには、中央が窪んだ丸いお皿、
まるで私が毎晩愛用しているシャンプーハットみたいに、深緑色をした傘を広げている。
「おい?しゃべれないのか?俺は人間の言葉、得意なんだぜ、その黄色いの、うまそうだね。
一口くれよ。」
などと、馴れ馴れしい調子で、愛嬌よく笑い、いささか長めの腕を屈めるようにして、
私のパパイアを、ひょいと取りあげた。
「パパイア、、、、」
私の声はとても小さく、彼に届かなかったのかもしれない。
彼は、もう私などには構わず、パパイアを食べはじめた。
水掻きのある手で上手にスプーンを包み込み、一口一口味わうように、、、、、。
たまに目をつむり、吟味するように、顔面に小さく空いた2つの穴から深く息を吸う。
彼がパパイアを食べると、鮮やかな緑色をした皮膚が少し黄色みをおび、
体内にパパイアが染み渡る様子が見てとれる。
私は呆然と、みとれるように、その様子を眺めていた。
「ごめん、全部食べちゃった。とっても美味しかったから、、、、、、」
彼はすっかりパパイアを食べ終えてしまうと、
ぐったりと柔らかい皮ばかりのパパイアを見つめ、
申し訳なさそうに言った。
私は、気にしてない、という風にブンブンと首をふる。
彼は、「代わりに、これをあげる。」と言って、
腰の下の方にぶら下がった、小さな丸い籠の中にそっと手をいれた。
「マスター、」
中からは、アボガドが1つ。
小さな穴がいくつも空いた、傷付いたアボガド。
私は、なにか胸に軽い衝撃を感じた。
それは、ちょっとした罪悪感のようなものだ。
マスターは、彼を一瞥し、それでも普段通り礼儀正しく、彼の元にやってきた。
「マスター、これカットしてくれる?このお嬢さんに、」
まるで顔馴染みみたいにそう言って、アボガドをマスターに手渡した。
マスターは、小さな穴で傷付いたアボガドを一瞬、悲しそうに見つめ、
それでも大切そうにアボガドの実を手の中で転がした。
「君は、アボガド食べたことあるのかな?」
私が、またブンブンと首を振ると、
彼は満足そうに笑った。
「だろうね。だから、興味があったんだ。はじめての物は、まず手にとってみなくちゃね。
僕もアボガドは食べた事ないんだ。」
マスターは、皮がついたままのアボガドの腹に躊躇無くナイフを入れ、
手の中で2つに切り分けた。
鮮やかなグリーン、彼と同じ色をした果肉から、するりと皮を外し、
手の上で、食べ良い大きさに切り分ける。
空っぽになった黒深緑色をした皮の中に、
綺麗に盛り付けて、私の目の前に置いた。
「どうぞ、召し上がれ、」
彼は興味津々という風に、カウンターに肘をつき、大きな澄んだ目で、私を見つめる。
私は恐る恐る、常温に戻したバターみたいなアボガドの実を、口に運んだ。
まるで味がしない、味。
クリーミーな感触だけが、ねっとりと舌に残る。
私が怪訝そうな顔をすると、彼は笑って、「どらっ」と、
まるで自分の一部みたいな色をしたアボガドを素手で、
つまんで尖った口に放り込んだ。
「こりゃあー、不思議な味わいだなあ。」
などと言いながら、次々と食す。
私も、辞めるという訳にもいかず、黙々と無臭のような生臭いような、
濃厚な舌触りばかり残るアボガドの果肉を口にした。
まるで、キミドリ色の皮膚をした彼自身を食べているような錯覚に襲われ、
飲み込むことも、味わうことも躊躇われる。
それでも、2人ですっかりアボガドを食べた。
「何でも食べてみなくちゃ、体験してみてはじめて、そのものの本質が解るんだ。
しかし、アボガドっていうのは、あんまり旨くないねえ。
もっとも、違う食べ方があるのかもしれない。」
彼は、「喰った、喰った、」と腹をたたき、筋肉質な身体を大きく伸ばして背伸びを一回、
「じゃあ、」と言って
フルーツパーラーを出ていった。

「ミカちゃん、ごめんね。ちょっと時間がかかっちゃって、あら、もう食べたの?」

母が用事を済ませて戻って来た頃には、マスターはもうすでに私の、、、
、、、、、正確には私達の、、、、、食べ終えたお皿を片付けてしまっていた。
下準備を終え、待機していた苺シェイクの材料をミキサーにかけ、
タイミングよく母の前に置く。
母は、「ありがとう、」と言って、苺シェイクを一気に飲んだ。
母が勘定を終えて、フルーツパーラーを出ていってしまうと、
マスターは私を呼止め、大きな種を1つ大切そうに取り出した。
さっき食べたばかりの大きなアボガドの種。
「記念にね、」
マスターは、耳元で囁き、
私の手の中にそっとそれを置いた。
私は頷き、大きなつやつやとしたアボガドの種を思わず頬に当てた。
それは、大きな川みたいな、澄んだ水のようないい匂いを微かに漂わせていた。



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by holly-short | 2006-05-05 14:19 | short story