カテゴリ:上質な遺伝子( 31 )

上質な遺伝子 31

 博士の研究室は地下にあった。男は鉄製の扉の鍵をあけて地下へ
と繋がる階段を降りていった。ひんやりと薄暗くなんの装飾もない
コンクリートの打ちっぱなしの階段。コツコツと私たちの歩く足音が
やけに響く。さすがに男も私たちの不安を汲み取るかのように、
「心配はいらないよ。博士の部屋へ行くだけだから。」と説明をする。
「一応、博士に君たちが侵入したことを報告しなくてはいけないから
ね、」と付け加える。再び新たな扉が目の前に現れる。鮮やかな青いペンキ
でつるつるに塗られている。男は再びズボンから鍵を取り出し、扉を
開ける。
「ここが博士の部屋だよ。」
地下に広がる広い空間は、まるで小さな図書館のように壁全面に
本棚が据え付けられ、そこにはびっしりと本が並んでいる。中央に
ガランと広がる大きな空間には赤いソファがいくつか浮かぶように
置かれている。まるで、「2001年宇宙の旅」に出てくる宇宙船の中み
たいに近未来的で、洗練されている。大きく立派な木がいくつか
鉢植えにされ、無秩序に置かれている。バオバブの木のように
不思議な形をしているものや、こんもりとした小さな山のような形状を
したサボテン、植物の作り出す不可思議なシルエットが不思議と
この無機質な空間にマッチしている。男は、私たちに中央のソファに
座るように促し、奥の部屋へと消えていった。部屋はまだ奥へと
つながっていて、ここ全体は生活スペースとなっているようだ。シンプル
で無駄がなく、とても心地の良い空間。ずいぶん地下にあるのにも
かかわらず空気がとても澄んでいる。部屋の奥からはコーヒーの
香りが漂ってくる。どうやら男がコーヒーを煎れてくれているようだ。
「ねえ、私たちいこんな所に来てしまって大丈夫なの?」
「うん、大丈夫だとは思うけど、不思議な展開だね」
「そんな悠長なこと言ってるけど、彼は銃を持っているのよ。銃は
犯罪なのよ」
「いくらなんでも、本物じゃないだろ。それに彼に殺意は感じないよ。
僕らが勝手に入り込んでしまったんだ。少ししたら、もうここを出よう。
ここもなかなか楽しいじゃないか。それに、夜は温泉だよ。ポカポカ
のんびりしようよ」と、彼は子供みたいに笑う。
「うん」
私も笑って、彼の腿に手を乗せる。彼はしっかりと、私の手を握って
くれる。しかし、私の笑顔はすぐに神妙な表情へと引き戻されてしまう。
男はコーヒーをトレーに乗せて、私たちの座るソファにやってくる。揃い
のカップアンドソーサーには、きっちりと同じ位置までコーヒーが注が
れている。彼は丁寧に私たちの目の前にあるローテーブルに4つ
のコーヒーを置いてくれる。コーヒーからは、それぞれ湯気が細く立ち
のぼる。
「博士はお風呂に入っていたよ。博士が来るまでの時間、コーヒーでも
飲んでいてよ。僕のコーヒーはとびきり美味しいはずだよ。なにしろ豆
から育てているからね」と彼は言い、コーヒーの香りをスーと一息に嗅いだ。
「本当に美味しい」
一口飲んで私がコーヒーを誉めると、彼はまんざらでもないという表情
で私に向かってカップを高々と持ち上げてみせる。次の瞬間、私は
一瞬で全身のコントロールを失う。手に持っていたカップはまるで
身勝手に堅い床へとまっ逆さまに落ちていく。スローモーションのようにカップ
が割れ、中のコーヒーが辺り一面炸裂する。私自身も、ぐらん、と一度
大きく揺らいでその場に崩れ落ちる。なにも見えない。真っ暗だ。その
うちもう闇すら存在しない。なにもなくなる。

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by holly-short | 2006-09-26 00:48 | 上質な遺伝子

上質な遺伝子 30

 私はもうすでに男に対して恐怖感を抱いてはいない。彼が私達を何
らかの目的で騙しているのだとは思えなかった。もしもそうであれば、
もう少し自然な演技をしてもよさそうなものだ。彼の身なり、薄汚い
白衣やただ伸びるがままのロン毛、喋り方や身のこなしは、どこか
社会性に欠けている。もしかしら、頭がおかしいのかもしれない。
本当に頭のおかしい人間は、一見まるで常人のように見えると言う
ではないか。社会性に欠けた常人。矛盾している。しかし、なにより
も彼のポケットには銃が入っているのだ。もちろん本物かどうかは
疑わしいところだが、偽物という確信だってない。
「ここは、どういう施設なんですか?」
恋人は歩きながら何気なく男に問いかけた。
「ここ?そうだよね。秘密だけど、元々はね、国の施設だったんだ。世界
各国からさまざまな植物を集めて育てているよ」
「とても珍しい植物ばかりね」
私は関心したように言う。いや、心底本当に関心している。
「だね。ここにある植物は本当に貴重なものばかりだよ。恐らく日本では
ここでしか見ることのできないものばかり。でも、半分以上はダミー
だよ。どこにでもある植物さ。」
「ダミー?」
「そう。簡単に見わけがつかないように色々な植物を育てている。実際に
研究の対象となっているのは、2割くらいかな。」
「研究?」
「そう。ここはね、研究施設なんだ。主に薬の研究をしているよ。植物に
は不思議な力があるんだ。人間は長い時間をかけてその効能を開発し
てきた。それこそ人間がまだ人間でもなく、哺乳類でもなかった時代から
さ。さまざまな植物の効能を体内に取り込み、恩恵を被ってきたと言って
も過言ではないよ。長い長い年月のなかで、偶然にも、必然的に発見さ
れ、知り、伝え、受け継がれ、生き残ってきた植物のパワーって奴さ。
その積み重ねこそが現代の薬学さ。ただ、最近は、科学的な薬物が
主流だから、植物そのものを研究する人間は少なくなったよね。ピン
ポイントで悪しきものをシャットダウンするような薬が好まれる時代さ。
しかし、悪しきものが無くなった所で、悪しきゆえんが存在する限り、
完治したとは言い難いよね。時間。それこそが偉大なんだよ。フフフフフ。
僕はね、ここで植物の世話と博士のアシスタントを任されている。
もう僕はここに来て15年になるよね。博士は、もっと長いよ。まだこの
ドームが出来る前から、ずっとここで暮らしているんだ。」
「博士とあなたの他には誰かいるのかしら?」
「いや、2人だけだ。ここはとても秘密な場所なんだ。沢山の人をいれ
たら、秘密は守れないでしょ。人間てーのは、実に口が軽い生き物だ
からね。」と男は言い、クックックッと気味悪く笑う。私と恋人は、一瞬顔を
見合わせ、互いに神妙な苦笑いを浮かべる。しかし、今の私達には、
現行男の後をついて歩く、それ以外の選択は見当たらなかった。

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by holly-short | 2006-09-23 00:58 | 上質な遺伝子

上質な遺伝子 29

「一体、おまえたちは、誰だ?」
男はしばらく銃口を私に向けたまま、無表情に言った。
「誰って?僕たちは、植物園を見物していただけなんです。誰も
いなかったから、無断で入って来てしまった。申し訳ない。お願い
だから銃は下げてくれ。」
恋人は、両手をあげて彼の前に一歩進んだ。男は銃口を恋人に向け
るが、そこにはもはや緊迫感はなく、なんとなく向けたといった感じに
過ぎない。
「見物ゥ?組織の人間じゃないわけ?」
「組織?」
私は、恋人の手を強く握ったまま、聞き返した。温室内はムンと暑いのに、
一気に冷えた身体中の汗で肌寒い。まるで別世界に入り込んだみたいに
現実感がない。しかし、にもかかわらず五感は鋭く研ぎ澄まされ鋭敏と
している。サボテンの力強い存在感と鼻につく独特の香りに飲み込まれて
しまいそうになる。
「僕らは、ただの見物客だ。観光ついでに植物園でも眺めようかと思って
軽い気持ちで来た、本当にただそれだけなんだ。」
恋人は両手をあげたまま、訴えるようにゆっくりと繰り返す。
男は銃をさげ、首をかしげるようにして白衣のポケットにそれを落とすように
仕舞い込んだ。
「なんだ観光客か。でも、どうやって入ったわけ?鍵がかかっていたでしょ。
ここは、一般に公開されているような植物園とはまるで違うよ。ある限ら
れた人達しか入れない特別な場所なのに。」
「扉は開いていたのよ。チケット売り場でお金を払おうとしたんだけど、
券売機も、従業員も見当たらなくて、そのまま入ってきてしまったの。
ごめんなさい。」
「そう、鍵が開いていたの?ふむふむ、他に誰にも出会わなかった?変な
白い髭を生やした爺さんとか、」
彼はどっしりと大きく、冷淡な風貌には不釣り合いな高く柔らかい声で
喋る。私達は、同時に首を横にふる。
「そう、じゃあ博士が鍵を閉め忘れたんだ。ついでに警報機のスウィッチ
も切れているってことだね。最近、博士もボケが酷くてね。まったく本当に
僕は困っているよ。」
男は、後ろで結んだもしゃもしゃと細く天然パーマのかかった髪の毛を
手で掻きむしった。彼は、私たちについてくるようにと促し、温室に鍵を
かけた。
「ここは、もう老朽化しているんだ。施設も博士もね。代り映えなく、いや
むしろ今こそすばらしく成長を続けているのは、この植物たちだけだ。」
と首を傾げる。私達は彼の後についてジャングルさながらの鬱蒼と茂る
植物の合間をぬって歩いた。

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by holly-short | 2006-09-20 22:43 | 上質な遺伝子

上質な遺伝子 28

 途中、私たちはマクドナルドのドライブスルーに寄り、車内で簡単に
昼食を済ませた。
「マクドナルドなんて、結婚して依頼食べたことない、」と私が言うと、
彼は笑って、「信じられない、現代人じゃないみたいだ、」と言う。
「マクドナルドに現代をあてはめるその感覚こそが、時代錯誤よ。
私の方こそジェネレーションギャップ感じちゃう」と私が言うと、彼は、
「うるへー早く喰え、」と口一杯にビックマックを頬張り、次から次へと
フライドポテトを口に放り込む。久しぶりに食べたチーズバーガーは
意外なくらいに美味しい。なんで、私はずっと長い間、マクドナルドを
食べてなかったのかしら。多分、健康に悪いから。夫だって、ジャンク
フードの類いは、毛嫌いしていた。そんな下品なものわざわざ食べる
必要ないじゃないかと、冗談半分に。彼は、上品な人なのだ。人は
食によって作られる。上質な人間は、上質な食べ物を食べる事によって、
上質になるのだろうか。厳選された素材と手間暇かけた料理。私自身、
出来る限り食生活には気を使うようにしていた。
 道中、サボテン植物園と書かれた小さな看板を見つけて、私は「あそこ
に行ってみたい、」と彼に訴える。彼は、「了解」と言って、看板に示され
た矢印の方向にハンドルをきる。ドーム型をしたガラス張りのサボテン
植物園は、深い森の中で、まるで未来から落ちてきたオブジェのよう
だ。もっともチケット売り場は、閑散としていて誰も人がいない。チケット
売り場といっても、そこにはチケットを売る自販売機も、カウンターもなく、
そこはドームへと繋がる小さな空間にすぎない。そこには、青いソファー
が2つと、ローテーブルが1つ置かれている。両側の壁に備え付けられた
本棚には大量の学術本や学術雑誌がずらりと並んでいる。壁にかかる
コルクボードに、「チケット売り場」とへたくそな字で書かれていなければ、
そこはまるで個人のプライベートな空間のようにも思えてくる。私たちは、
お金を払わずに、薄暗いドームの中に足を踏み入れた。ドーム内は、
薄暗く外に比べると随分と温かい。ムンとする植物の強い匂い、黴臭さと、
甘さ、苦さ、清涼感が入り混じったような独特の空気感。湿度は高く、
周囲がねっとりと、わずかに重たく感じる。
「勝手にはいってきちゃって大丈夫なの?」
私が不安げに言うと、彼は私の手をとり、「大丈夫だよ。誰かに出会ったら、
その時お金を払えばいいさ。」と呑気に答え、鬱蒼と植物の生い茂る
ドームの中を突き進んでいく。サボテン植物園の中では、サボテンだけ
でなく、さまざまな植物が育てられている。それらは、見たこともないような
不思議な植物ばかりだ。管理が行き届いているのか、余程環境がいい
のか、みな生き生きと精気に満ち溢れ、勝手気ままに枝葉を伸ばしている。
普通、植物園であれば、植物の名前が書かれたプレートの1つでも、
あってよさそうなものなのだが、そのようなものは一切見当たらない。その
代わり植物本体に小さなタグが取り付けられている。タグには、小さな番号
がひとつずつふられている。肉厚な葉を広げ、枝の太い、くにゃくにゃと
枝をくねらせた、葉の形が個性的な、根っこがこんもり盛り上がった、
鋭い棘に囲まれた、大きな妖艶な花をぶら下げた、甘ったるい不思議な
香りを放つ、どす黒い、大きな奇妙な形をした実をつける、
さまざまな植物たち。そんな奇妙な植物群を眺めながら、私と恋人はドーム
の奥へ、奥へと進んだ。ドームの中央部分に進めば進む程、植物は
より一層鬱蒼と生い茂り、巨大な、または背の高い植物が無秩序に植えら
れている。私は、深く息を吸う。深く吸って、ゆっくりと吐く。植物によって
浄化され吐き出された濃厚な酸素は、透明感に満ちている。植物たちの
息づかいが体内に染み込み、私はまるでこのドーム全体の植物群の一部
と化し溶け込んだような心地になる。ドームの中央部は大きな穴のような
池が水をたっぷりと蓄えていた。池には巨大な円盤形の植物がいくつも
浮いている。私は思わず指をさす。
「あっ」という声と共に。
「あの丸い植物。幼い頃、植物図鑑で見たわ。あの上に小さな女の子が
乗ってアイスクリームを食べている写真。」
「乗ってみたら?」
「もう、無理よ。きっと今乗ったら、私共々沈んじゃうわ。」
「そうだね。今、ここで沈まれても僕も困る。」
池を通り過ぎ、再び鬱蒼とした植物群の中へ、私達はまるでなにかに
突き動かされるように吸い込まれていった。私は、もうすでにマフラー
をはずし、コートを脱ぎ、セーター1枚でも暑いくらいだった。つながれた
ままの恋人と私の手も、じっとりと汗ばんでいる。少し進むと、小さなビニール
ハウスが建っている。ビニールハウスは、よく見ると全面ガラス製で、分厚い
曇ガラスで出来ている。中央部分にぶら下がっている電球の光が、曇ガラス
を通して、不揃いな緑色のシルエットを美しく映し出している。まるで緑色の
光を淡く放つ、宝石箱のように。見るからに頑丈そうな錠前の鍵は、扉にぶら
下がったまま、開錠されている、私達は躊躇なく中に進んだ。まるでロール
プレーイングゲームの主人公のように。鍵は、開けられている。これは進めと
いうサインだ。進め。ゴー。宝は、箱の中にある。
「すごい。」
ガラス張りの温室の中には、大小様々なサボテンの鉢が所狭しと並べられていた。
生命力に満ち、奇妙で、珍しいサボテンの数々。どれも美しく、つやつやと鮮やかだ。
「きれい。こんなサボテン見たことない。」
私が、目の前のサボテンに思わず手を伸ばそうとした、その瞬間、私と
恋人の背後に1人の男性が立っていた。手には銃を持ち、銃口はまっすぐに
私へと向けられている。一瞬、私は何が何だか解らなくなる。男性は40代
くらい。恰幅よく、薄汚れた白衣を着て、長いくしゃくしゃとした髪を後ろで
ひとつに束ねている。2つの丸いレンズの奥で、瞳は冷たく私を見つめている。
植物に包まれた柔らかい空気の中で、鈍く光る重厚な銃の存在感は、
まるで重力そのもののように暴力的に私たちを引き寄せる。身体全体が
釘付けになる。そうだ、これはゲームなんだ。銃だ。敵が私に銃を向けている。
私の武器は?回避する方法は?私はどこでミスを犯したのだろう。私は、
このままここで死ぬんだ。GAME OVER.

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by holly-short | 2006-09-14 23:43 | 上質な遺伝子

上質な遺伝子 27

 「ねえ、なんで奥さんと子供を残して、別の女の人のところへ行って
しまったのかしら?」
車内は温かく、体内でくすぶっていたアルコールは徐々に酔いへと変化
した。私は、心地よくゆったりとした酔いに身を任せた。
「どうしてだろう、」
恋人は真直ぐ前を向き、真剣な表情でハンドルを握る。しっかりとした
鼻筋、鋭く優しい目、まるで野生動物のように彼は、美しい。
「たぶん、つまらなくなっちゃったんだ。毎日が。彼女には申し訳ない
けど、それが正直なところかな。彼女は美人で、料理もうまいし、社交的
で、なにをやらせてもテキパキこなす申し分ない女性だった。でも、長い
結婚生活でちょっとずつすれ違っちゃったんだ。」
「どうしてかしら?」
「なんだか、今日は厳しいね。酔っ払ってるの?」
彼は苦笑いして、私の頭にポンと手を置く。
「ううん。酔っ払ってなんかいないわよ。私は酔っ払っても、頭はいつも
冷静なのよ。まるで冷蔵庫でキンキンに冷やされたマリネのごとく。
ただ、素直に疑問に思ったの。なんで男と女って、こうなのかしらっ
て、」
私は彼の横顔にそっと口づけする。
「そうだなあ。彼女の一人をずっと好きでい続けることが出来なかった
んだ。勿論、ちがう人間同士が同じ屋根の下で暮らしてるわけだから、
お互い意見や気持ちの食い違いもあったんだけど、それでもなおと
いう気持ちには、なれなかった。それで、彼女とはセックスできなく
なってしまったんだ。それは、別に彼女のせいでもなく、彼女が嫌いに
なったわけでもないけど、彼女と気持ちが通わなくなってしまったんだ。」
「でも、それは奥さん以外に相手がいたからでしょ?」
「うん。こんなこと言ったら人格を疑われるかもしれないけど、僕はまだ
若かったし、実際すごくよくもてたんだ。たとえば、母親のことは尊敬し
ているし、育ててもらった感謝もある。とてもいい人だと思うけど、肉体
関係は無理だ。そんなことを母親とするなんて気持ち悪いと思ってし
まう。正にそんな感じになってしまった。彼女には大変もうしわけない
けど、正直に言うとそんなところかな。」
「なんだか、寂しいわ。」
「そうだね。ごめん。」
「ううん。私が聞いたのよ。答えなんてだいたい検討がついたのにね。
いくら冷静でも、頭が悪いんじゃあ、どうしょうもないわ。」
「そんなことないよ。俺が悪いんだから。ごめん。それに君は、
けして頭が悪くないよ。」
彼は再び、私の足を掴んで、彼の元に引き寄せる。今度は、私自ら
靴下を脱ぎ、裸足になって、彼の腿に足を乗せる。
「冷たい足だ。」
彼は私の足をしっかりと握って、温めてくれる。車は、険しい山道を
滑らかに走り抜けていく。彼はとても運転がうまい。たぶんセンスがいい
のだ。運転も、女の扱いも。私は、もう何も言わず、心地よいままに
車の振動に身を任せた。

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by holly-short | 2006-09-11 23:38 | 上質な遺伝子

上質な遺伝子 26

 私たちは、世間一般で言うところの、不倫関係にあり、それは非難され
るべく行為であるにもかかわらず、私たちはとても健康的で明るかった。
それは、私達が他人の痛みの解からない無神経な人間であるからかも
しれない。又、誰にとってもこのような状況に陥れば、そう願いたいと
いう気持ちも含め、事態を美化するものなのかもしれない。私は、彼の
となりで、とても満たされて幸せな自分自身を発見する。何度も。彼は、
運転中にもかかわらず、私の足を引き寄せ、自分の腿の上にのせる。
靴下を脱がせて、なでたり、ひねったり、くすぐったりする。「汚いよ、」
と私が言ってもお構いなしに、口づけをしたり、かじったりする。まるで
子供みたいに。
「2人で、車に乗って温泉に行かれるなんて、夢みたいだね。」と、嬉しそ
うに言う。私もつられて、「本当に夢みたい。」と言う。夫でない人と、温泉
旅行に出かけるなんて、と思ってみる。
 私たちは、海辺の小さな漁港に寄り道した。手をつないで、海辺を歩く。
冬の海はとても寂しい。私はマフラーをして、彼のグレーのニット帽を
深々とかぶる。彼は、寒がりなので、これでもかと厚着をしている。握ら
れているほうの手は、彼のダウンジャケットのポケットに入れて、左手は
自分のコートのポケットに入れる。彼の手は温かく、私は彼の右へいった
り左へいったりしながら、両手を順番に温める。寒すぎて、無口になる。
私たちは、殺風景な堤防をのろのろと歩く。途中、釣りをするお爺さんの
バケツの中を覗く。水のないバケツの中で、小さな魚がゆっくりとヒレを
動かし、呼吸をしている。恋人は、お爺さんと、天気のことや、今時分釣
れる魚のことなどについて話す。彼は、誰とでも、何処でも、すぐに打解け
てしまう。お爺さんは、ジャケットのポケットからウイスキーのミニボトル
を取り出し、アルミ製の小さなカップに琥珀色のとろりとした液体をぐい
ぐいと注ぐ。「よかったら、ふたりで飲んでよ。温まるよ。」と無造作に
それを手渡す。恋人は、自分は運転手だからと言って、私にコップを
手渡す。アルミ製の古びて歪んだコップは、とても冷たく、寒々しい。
私は、自分がシベリアに送られた囚人であり、作業中に心優しい警備員
のお爺さんが、こっそりとお酒をわけてくれているのだと、思ってみる。
凍てつくように冷たい液体は、体内に入ると同時に熱を帯び、身体全体
にじんわりと広がった。私が美味しいと言うと、お爺さんは再びジャケットに
手を突っ込み、チーズやマカデミアナッツ、チョコレートなどをくれた。私は、
チョコレートを食べ、チーズを齧り、ちびちびとウイスキーを舐めた。恋人は、
お爺さんと一緒に煙草をふかした。
 私たちは再び車に乗り込む。 車は、海を離れずんずんと山の中へ、入って
いった。

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by holly-short | 2006-09-07 18:51 | 上質な遺伝子

上質な遺伝子 25

 滅多にすることのない外泊に夫はとても協力的だった。「楽しんでくる
といいよ」と優しく彼は言う。夕食は外食で済ませるから作らなくてもいい、
と言われたが、私は鍋一杯にカレーを作った。トマトとレタスとキュウリの
サラダと白い皮を丁寧に剥いて身ばっかりにしたグレープフルーツを
それぞれ小皿に盛り、ラップをして冷蔵庫の取りやすい位置に並べた。
冷凍庫には、冷凍したゴハンがあること、それはレンジで3分間チンすれ
ば程よく解凍することなどのメモを書き、机の上に食器やスプーンなどと
一緒に並べる。私は、夫にEVGENIAと一緒に温泉へ出かけると嘘をつい
た。EVGENIAの他に身近な友人がいない私にとって、それしか思い浮
かばなかったのだ。嘘はするすると口から出た。本当のことの様に喋ると、
まるでそれが真実のように思えてくる。一瞬、私は本当にEVGENIAと
温泉に行くような気になってみる。しかし、EVGENIAからは、相変わらず
なんの音沙汰もなかった。彼女の沈黙を都合良く利用している自分が
寂しく、再び電話をしてみるが、やはり彼女は電話にでない。安堵と不安
が入り交じったような心境。彼女が電話をでなかったという事実は、本音
の部分で私を安心させた。きっと私は非情な女なのだ。結局は自分の
ことばかり。
 私は、家の中を綺麗に片付け、掃除機をかけ、それと同時に旅行の
支度をこっそりと済ませた。荷物は、少なく小さな鞄1つで十分収まっ
た。着替えと簡単な化粧品。カメラも、暇つぶしの為の本も、ガイド
ブックもいらない。私は身軽な自分自身を愉快に、頼もしく感じた。
身体ひとつで、私は何処へでも行けるのだと。私が望めば、いつでも
何処へでも。
私が恋人について考えている時、一緒にいる時や、頭が彼で独占
されている場合など、世の中は私と彼が主要な人物で、夫を含めた
他の人達は背景のようにボンヤリとしている。まるでカメラのフォーカス
機能みたいに。ある一部分をクリアに際立たせ、それ以外はぼかして
しまう。罪悪感がないかといえば全く無いわけではなく、それは、
ぽっかりと大きな穴のように存在しているのだが、それは、まるで
背景の一部分にすぎず、私はそれを見ようとしない。きっと、私には、
見たいものしか見えないのだ。たとえそれが、目の前に存在しようとも、
自由自在にフォーカスを捻り、その存在を巧みにボカしてしまう。
いつか、その大きな穴に落ちるのだという危険を感じつつ、私は
まっすぐに突き進む。もう私にはそれしかないという風に。何処かへ。
あらぬ場所へ。いつか落下するその日まで。もしかしたら、もうすでに
私は、落ちている。
 夫と話をしている時、私は、自分が自分でないように感じる。もはや、
2人の間に話すべきことなどなにも無い。カラッポなのだ。私は、
無表情に夫を見つめる。コーヒーを飲む。トーストを齧る。新聞を読む
という風でもなく眺める。夫が家を出ていってしまうと、私はスピーディー
に洗い物を片付け、家を出る。小さな鞄ひとつぶら下げ、私の場所
へと向かう。それは、私と恋人とで共有するとても小さく、そして多分
脆い、今この瞬間、私にとってかけがいのない空間。

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by holly-short | 2006-09-06 00:08 | 上質な遺伝子

上質な遺伝子 24

金ちゃんは、あまり外へも出歩かなくなった。食欲もなく、餌を食べ
ても、すぐに吐き出してしまった。心配して、獣医に連れていくものの、
特に目立った問題はないと言う。栄養失調気味とのことで、栄養剤を
数回打ってもらった。ある日、金ちゃんは久しぶりに外出したきり2日
間帰って来なかった。私たちは、心配したが周囲を探す以外には、
なす術がなかった。ルイみたいに、いなくなってしまったのでは?
と不安になった。しかし、3日目の朝、金ちゃんはふらりと帰ってきた。
正確には、朝起きたら金ちゃんがいたのだ。水をあげると、驚くぐら
い沢山の水を飲んだ。ゴクゴクゴクと今まで聞いたことのないような
音をたてて、水は金ちゃんの体内に面白いように吸い込まれていった。
それから、金ちゃんは少しずつ元気を取り戻した。夜は、大抵私の
部屋で私にくっついて眠った。ルイがいなくなって、金ちゃんは少し
人間らしくなったような気がした。心なしか。たまに窓の外をぼんやり
と、いつまでも眺めていること以外は、以前と変わず、身体も少しずつ
元の大きさを取戻していった。私が結婚して、実家からいなくなって
も金ちゃんは、変わらず元気なままだった。そして、ある日、金ちゃんは
近所の駐車場で8年間の命を閉じた。死因は、よく解からなかった。
金ちゃんは駐車場で、硬く伸びていたのだそうだ。私は、金ちゃんの
亡骸を見ていないので、今でも金ちゃんが生きているような気がして
ならない。
 夢の中で、私は母と父と弟と一緒にリビングで、それぞれ好きなこと
をして過ごしている。皮のソファーの背もたれに沈むようにして金ちゃん
が佇んでいる。エメラルドグリーンの目は、窓の外をぼんやりと眺めて
いる。そして、金ちゃんは、突如鳴きはじめる。まるで、なにかに憑かれ
たように。尋常じゃない様子で、窓を開けるようにと、私たちを促す。
私は、いつもみたいに窓を開けてやる。窓を開けると、ルイが昔みたい
に勢いよく入ってきた。他の仲間を引き連れて、金ちゃんを迎えにきた
のだ。他の仲間は、4,5匹くらいいてトラ柄だったり、三毛だったり、まる
で野良猫の寄せ集めのような集団だ。ルイは、とてもたくましく以前に
比べて随分大きく見えた。金ちゃんは、まるで当たり前のようにルイを
見つめていた。そして、ルイに連れられて金ちゃんは何処かに行ってし
まう。身体1つで。そして、きっとふたりとも、もう二度と帰ってこないのだ
と、夢の中で私は確信している。とても穏やかな喪失感と共に。私は
目覚める。私が目覚めると、夫も目を開けた。
「ねえ、金ちゃんの夢を見たのよ。」
夫は、眠そうにぼんやりと私を見つめる。
「私は実家にいて、まだ金ちゃんが生きているの。そしたら、ルイが金
ちゃんを迎えに来るのよ。変な猫仲間をいっぱい引き連れて。金ちゃん
を、連れて行ってしまうの。でもね、全然寂しくないの。金ちゃんは、
ルイをずっと待ちつづけていたから、とっても幸せそうだった。懐かし
かったな。」
「ふーん」
夫は、寝ぼけたように言い、そのうちまた次の眠りへとさらわれていく。
私は、懐かしく、幸せな気持ちで満たされ、再び目を閉じる。夢で得た
感触を消すまいと、再び眠りにつく。

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by holly-short | 2006-08-31 21:52 | 上質な遺伝子

上質な遺伝子 23

 夢。
 夢の中で、懐かしい人が普通に隣にいる情景。それは、私にとって夢
の中では、現実そのものだ。懐かしい人と言っても、それは雄猫で、
名前を金ちゃんという。上から墨をかぶったみたいに真っ黒で、そこに
は2つのエメラルドグリーンの目が美しく輝いていた。長い尻尾は、途中
で3時の方向に折れ曲がっている。紛れも無い雑種で、金ちゃんは、ルイ
という兄弟と共に、生後すぐに我家にやってきた。2匹まとめて弟が近所
の公園から拾って来たのだ。母に何度も返してくるようにと説得されたが、
弟は断固としてそれを拒否した。最後には泣いて、駄々をこね、2匹は
渋々我家へ迎えられたのだ。弟はグレーの模様の入った子猫に、高貴
な感じがするからと言って、ルイと名付けた。もっともアメリカンショート
ヘアーを思わせるシルバーグレーの繊細な毛並は、成長するにつれて
平凡な薄茶色へと変化した。黒い方の子猫は、お姉ちゃんの猫だから、
お姉ちゃんが名前をつけるといいよ、と弟は言った。私は、周囲の反対を
他所に彼に金丸という名前をつけた。しかし、私も含めて誰も彼のことを
金丸とは呼ばず、金ちゃんと呼んだ。ふたりは、とっても猫らしい猫だった。
猫なのだから、当たり前なのだが、今まで我家で飼った数匹の猫に比べ
ると、事実抜群に猫らしい猫だったのだ。きっと、2匹で飼っていたから
だ。それ以前の猫は、みな単独で我家に連れて来られ、自分のことを
半ば人間だと思っていたように思う。その後、再び弟の策略によって、
子犬を飼うことになるのだが、子犬は2匹の猫に常に囲まれて育った
ためか、自分を猫だと思い込んでいた。猫だと思い、高い所から思い
きり飛び降りたりするものだから、失敗してよく顔を強打した。そして、
すぐに足が悪くなった。犬の餌よりも、味の濃い猫の餌を食べたがっ
た。育ちや教育というものは、とても大きくそのものの本質に反映する
ものなのかもしれない。
 金ちゃんとルイは、いつも一緒だった。ちょっと離れていても、どこか
ふたりは繋がっていて、すぐに一緒になるのだ。餌を食べるのも、
昼寝をするのも、外出するのも、深夜突如として始まる猫の集会に
参加するのも。去勢手術だって、ふたり並んで一緒にうけたのだ。
正確にはうけさせられたと言った方が正しく、悲しいかな、ふたりは
揃って雄という性を捨てなければならなかった。放し飼いだったので、
ふたりは、リビングの小さな窓から出たり入ったりする。よく動き、よく
遊び、よく寝て、よく食べた。スレンダーで筋肉質な身体は、毛並み
が良く、いつも互いを舐め合っていた。ふたりはとても美しい猫だった。
ふたりが我家に来て、5年後のある日、ルイがいなくなった。その日、
家を出たきり、ルイは忽然と消えてしまった。1日や2日、帰って来ない
ことは、今までもよくあったのだが、ルイは一週間しても一ヶ月しても
帰って来なかった。ポスターを貼っても、なんの効果もなかった。
その後、ルイの消息は不明だ。金ちゃんは、それから半年間で半分に
痩せてしまった。身体が小さくなり、目ばかりが目立つようになった。
エメラルドグリーンの目は寂しそうに窓の外ばかりを見つめていた。

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by holly-short | 2006-08-30 23:34 | 上質な遺伝子

上質な遺伝子 22

 その日も、旅行会社は、朝から混雑していた。いつもみたいに、
大きな山を何回か乗り越えて、夕方を過ぎた頃には、客が捌けた。
お昼休みがとれていない社員の2人は、遅いランチを食べに食堂
へと出かけた。若い男女が店の片隅に備え付けられた小さなテーブル
で、ハワイ挙式のパンフレットを眺めている。2人とも、とても若くて、
とても幸せそうに見える。私は、山積みにされたファイルの確認作業
と発券作業を黙々とこなし、その合間合間にポツリポツリとやってくる、
お客に対応した。
「こんばんは、」という男性の声に、私は反射的に「いらっしゃいませ」と、
体勢を立て直す。見上げると、そこには恋人がいた。私は無表情に、
小さく、再び「いらっしゃいませ」と言ってみる。感情のない平坦な声で。
そして、深刻な、にらみつけるような、困ったような、呆れたような表情
で彼を見つめる。彼は、にっこりと笑って、なんでもないようにカウンター
の席に悠然と腰をおろした。
「なにしに来たの?」
私は、ささやくような小さな声で言う。眉間に深い皺を寄せながら。
「なにって、旅行の予約をしに来たんだよ。」
「予約?」
「そう。だって、ここは、旅行代理店だろ。旅行に行きたいんだ。」
私は、呆れたように首をかしげる。怪訝な表情で。
「で、どこまで行かれたいんですか?」
「それは、まだ決めてない。」
「でも、それでは、予約は取れません。どこに行かれたいのかも、
決まっていない状態では」
私は、意地悪く言う。つっけんどんに。
「それを一緒に考えてくれるのが、君の仕事だろ」
まるでお客様然とした太々しい態度で彼は、言う。
「そうです。おっしゃる通りです。申し訳ありませんでした。では、お日取
りは?」
「それも、まだ決めてないんだ。」
私は、再び呆れたような視線を彼に返し、返す言葉もなく、彼を見つ
めた。
「でも、近場の温泉に行きたいと思っているんだ。静かで、お湯が
ちゃんとあって、そんな高級な所じゃなくていいんだけど、こじんまり
した民宿みたいな温泉旅館なんて、どうだろう?」
「どうだろう?って、とっても良いと思いますよ。この近くには車で行か
れる手軽な温泉地が沢山あります。お値段はピンキリですけど、とり
あえず、パンフレットを持ってきますね。」
私は、温泉コーナーに並べられたパンフレットを片っ端から取り出し、
勢いよく彼の目の前に置いた。彼は、何喰わぬ顔で、それらを目の前
に並べはじめる。
「で、おすすめは?」
「おすすめ?って言われたって、私だって、全然、まったく、どこにも
行ったことないもの。そんなの知るわけないじゃない。」
私は、小声で言う。
「いつも、そんな風に、お客さまに対応しているのか?ひどい従業員だ。
ひど過ぎる。」
彼は信じられないという風に首を横に振り、いたずらっぽく笑った。
そして、いつもみたいなリラックスした調子で、ふーん、と言いながら
適当にパラパラとパンフレットをめくる。
「どこかに、一緒に行こう。」
恋人は、顔をあげずにつぶやくよう言った。

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by holly-short | 2006-08-29 22:28 | 上質な遺伝子