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ゆらゆらと  (前半)

 はじめてそこに行ったのは、夏の暑い日の午後だった。そこは、特別養護老人ホーム
で、疾患をかかえる老人が集まる老人施設だ。略して特養と言うらしいが、私は始め特
老だと勘違いしていて、なにか特別な老人が集められているのだと思っていた。白く塗
られた堅く無機質なビルヂングも、ガランと清潔な廊下もとても涼しげだ。母は、一歩
建物の中に入ると、まるで私の存在など忘れてしまったかのように先を歩いて、階段を
タンタンとのぼって、何処かに行ってしまう。まだ朝の8時前だというのに、時間は
ゆっくりと希薄な感じがした。窓ガラスには、星型のシール、大きな文字で書かれた誰
かの名前、天井からはオリガミを細かく切ってつなぎあわせた紙飾りがダラリと色褪せ
ている。色紙や包装紙を細かくちぎって張り合わせた大きな夜空に天の川。書道クラブ
と張り紙されたボードには、半紙がヘラヘラと扇風機にあおられていた。

「暑い夏」
「涼」
「朝顔」
「西瓜」
「七」
「ぬ」

壁に掛けられた大きな黒板には7月の行事が大きなしっかりとした文字で書き込まれて
いる。それを見て、「あ、」
と、一言、言葉が漏れた。誰もいない廊下で、言葉は吸収されるようにシュンと消え
た。七夕であった。白い制服を着た看護婦が私の横を忙しそうに通りすぎた。私は、母
の後を追い長い廊下を歩き、階段をのぼった。階段と廊下をつなぐ境目には、小さな鈴
が所々についた木製の柵が立てかけられていた。通り抜ける度にシャリンシャリンと鈴
が鳴る。寂しい幼稚園の様にシンと静まりかえっている。ずらりと並んだ大部屋の前を
ウロウロとしていると、一つの部屋の中から母が顔を出し、私を見つけた。

「サチ、サチ、早く、来て、来て」
と手招きで私を呼ぶ。部屋の中はパイプベッドが並んでいる。数人の老人がそこで暮ら
している。ベットは大きな白いカーテンで仕切られ、西峰さんは窓際のベットに体を横
たえ、落ちくぼんだ小さな目をショボショボとさせていた。西峰より子と書かれた名札
がベットの背もたれにかけられていた。白い下着のような着物を着ていた。頭髪は白く
薄く、顔はたくさんの皺でにぎわっている。男性とも女性とも区別のつかない不思議な
生き物に見えた。私が母の横に来ると西峰さんはゆっくりと腰をあげた。

「どなたさん?」
その声も、言葉もしっかりと重く思わずギョッとした。母はニコニコと笑顔を浮かべて
私を紹介した。
「これが娘のサチです。ほら、サチ挨拶しなさい。あなたのお婆ちゃんなのだから、西
峰より子さんと言うのよ。」
と楽しげに言う。
「こんにちわ」
と挨拶して軽く頭をさげた。吐き出された言葉はまたどこかに吸収されてしまうような
気がした。西峰さんは、表情ひとつ変えず、にこりともせず、その白目とも黒目ともあ
いまいに落ちくぼんだ2つの穴の中から私を覗いた。すーと息を吸い、モヤモヤとした
欠伸をかいた。うだうだとそんなふうにして、また柔かそうなベットに横になった。母
は、お土産にと持ってきたカラフルな毛糸の靴下を西峰さんに渡し、またニコニコと何
か天気のことや、仕事のことを話した。西峰さんは、といえばどこか虚ろで今にも萎ん
でしまいそうだ。ボケているのだと思った。母は一通り、喋り終えると、チラリと時計
をみて、
「じゃあ、私は婦長さんに挨拶をしてくるから」
と、私を置いてどこかにいってしまった。
私は、大きな窓から覗く手入れのわるそうな庭や、細く汚い川をぼんやりとながめてい
た。たっぷりとしたカーテンの隙間から漏れる日の光、白っぽい部屋に溜まる。西峰さ
んは小さく小さく萎んで、そのしなやかな皺の中に心地よく眠った。私は白い布団の小
さな膨らみを眺めていた。ベットの上に広げられたままの下着や靴下を一つにまとめて
小引出しの上に並べた。西峰さんの小さなからだに掛かる白い布団はヘニャリと柔か
く、わずかに湿っているように思えた。私も昔、こんな布団で寝ていたように思えた。
部屋は、じんわりと温かく、何処かに沈んでいく様な気がした。
 
 母は、四十台後半でタクシー運転手をしていた西峰正治さんと再婚した。正治さんは
母よりも5つ年で初婚だった。身内といえば、特養に預けられている西峰より子さんが
唯一の身内とのことだ。そんな感じで、誰に反対されるわけでもなく、特に祝福される
わけでもなく、2人は暮らし始めた。母は、長年勤めていた小料理屋を辞め、近くの惣
菜屋でパートをはじめた。

 母が、私の父と離婚をしたのは、私が小学校の低学年にいた時分だ。その頃のことは
あまりよく覚えていない。毎日こわいばかりであったような気がする。家に帰ると、厚
手のカーテンは締めきられたままで、その薄暗い部屋の中で母はいつもぐったりと横た
わっていた。空気は湿っぽく濡れていて、私を恐いような妙な気分にした。

「ただいま」
と小さく言うと、母は大抵ゆっくりと身体を起こす。疲労した顔に力のない笑顔を浮か
べて、
「おかえり」
と哀し気な声を漏らす。そして私の手を握ったり、私を抱きしめたりする。体は柔か
く、温かくて、母の匂いがした。私の小さな胸に顔をうずめ、湿った吐息を吐く。吐息
は、吐いても吐いても際限なく出てくるような気がした。
「サッちゃんってお父さんに似てるね、こうしているとお父さんといるみたい」
などと言う。そんな事をとりとめもなく続けて、そのうち目に涙を溜めたりした。母が
きつく抱くのがこわかった。

 西峰さんは、愛想がなく、無口で物静かある。ただ、小さな身体とは、裏腹に食欲だ
けはあるのだ。食べ物のこととなると西峰さんの静まりかえった表情に微かな笑みがこ
ぼれた。普段ほとんど口をきかない西峰さんと初めて言葉らしきものを交わしたのも朝
食の時分だった。どこというわけでもなく食べ物の匂いが湧くように漂い、ステンレス
の台車に二列に並んだ朝食が運ばれてきた。西峰さんは、布団の中からリモコンを不器
用に探り出し、ウィーンといういかにも機械的な音とともに上体を起こした。小さな穴
のような目を湿らせ、喉をゴクリと鳴らす。朝食はクリーム色したプラスチックのト
レーやお皿に乗せられていた。大きなコッペパンが2切れ、イチゴジャム、マーガリ
ン、薄くスライスしたキュウリ5枚、マヨネーズ、熟したバナナ1本。牛乳は、蓋のし
まる小さなプラスチックの容器に入っている。その突起した部分から口をつけて吸える
ようになっていた。
「ここは味付けが本当に上手ですからね、美味しくて、美味しくて、この時間がアタシ
は一等楽しみですよ。三波春夫も好きだけど、やっぱり食べることが一等好き」
西峰さんは、なにか憑かれたように喋り、薄い皮膜を染めた。大きなコッペパンを震え
る小さな手でしっかりと握ってムシャムシャと音をたてて食べはじめた。噛んでいるの
か、ただ湿らせているのか、上顎と下顎を上下に大きく動かしながらコッペパンを飲む
ように食した。牛乳をカプカプと飲み、キュウリをツルルと吸い込んだ。バナナを口
いっぱいに放り込み、朝食を終えると、何事もなかったようにベットを平な位置に戻し
て小さく小さく縮む。

 七夕の日だった。私は小学生で、2年生くらいだった。体育館に大きな竹が2本運ば
れ、舞台の両脇に立て掛けられた。開け放たれた扉から入る7月のふんわりとした風に
笹の葉がサラサラとかすれるような音をたてた。先生は色違いの色紙を一枚づつ配っ
た。私に配られた紙は深いブルーだった。教室内は楽しげな空気で満ちていて、思い思
いの願いに心を巡らしていた。私は紙を隠すように手で覆い願いごとを書いた。一つ目
を書いて、その隣に
「スイゾクカン ニ イキタイ」
と書いた。水族館に行きたかったのか、水族館が好きだったのか、覚えていない。理由
など無く、一つ目が哀し気なものだから、なんとなく書き添えてみたのかもしれない。
数日後、夜遅くに担任の教師がアパートを尋ねて来た。母とすこし話し、私に宿題を忘
れないように、と忠告して暗い夜道を帰っていった。母に、理由を尋ねると、PTAの
ことでちょっと、と言葉を濁した。

 母は、よく西峰さんにちょっとした土産を包んで、面会に出かけた。仕事のない日曜
日などに私が暇そうにテレビでも見ていると、母は煮物やお浸しなどをこしらえて、
持って行くようにと言った。はじめのうちは、気持ち悪いような照れくさいような心地
だった。そのうち暇でも暇でなくても、母がこしらえた煮物やお浸しなどをつまみなが
らセカセカと支度をして、西峰さんに会いに行くようになってしまった。

「こんな年寄りの所にねエ」
と西峰さんの向かいのベットで暮らすカツさんは言った。西峰さんは母がこしらえた里
芋の煮っころがしをプラスチックのフォークで懸命につついていた。口をポカンと開け
たかと思うと、
「あんたの母親は、料理が上手で、上手で、正治さんは幸せものです」
と言う。里芋を口に入れ、ネトネトとやる。ネトネトとしばらくやってゴクリと飲む。
「はやく結婚しなきゃあ、いけないヨ。結婚は第二の人生だから、結婚はいいもの、い
い人と結婚しなきゃア駄目ヨ」
カツさんはそんな話が好きだった。カツさんは幼い頃にブラジルに移り住み、30年間
をブラジルで過ごした。
「主人とはね、それが不思議なことに縁があったんでしょうねえ、キューピットです。
ブラジルにはコーヒーを飲ます場所が在るんですけれど、そこで主人とはじめて出会っ
た。目が合って、似た様な顔があるなって、以前にも何処かでお会いしましたねって、
言われて、その一言でその日から暮らし始めたの。不思議でしょう?でも、それだけ
よ。」
 カツさんはよくブラジルの話をした。話し始めるとなかなか終わらない。終わらない
話についつい引き込まれてしまう。
「ブラジルはいいわよオ。だって、着物を縫わなくていいでしょう、だから最高なの。
気候も一年中いいし、さわやかで、温かくて、あなたも、気候がよい所にお嫁に行かな
くちゃ駄目ヨ」
聞いているのか、いないのか、西峰さんは不気味な薄ら笑いをケ、ケ、ケ、とやって後
はお茶をすすったりする。カツさんは、そんな西峰さんを峰ちゃん、峰ちゃんと呼んで
いる。
「峰ちゃんはね、ぜんぜん私とはタイプが違うんだけど、私のいいお友達、いつも私の
話をヨオーク聞いてくれるもの、こんなにヨオーク聞いてくれるのは峰ちゃんだけヨ」
西峰さんは、またケ、ケ、ケ、とやる。
「私はとにかく金キラキンで派手なのが好きなんだけど、峰ちゃんは地味ヨ。峰ちゃん
は、地味、地味。派手なものは嫌いだもの。洋服だって、注文するんでも、なんだか男
みたいな、下着みたいな地味なものばかり選んで、私が赤やオレンジがいいワヨなんて
言っても、首を横に振るばかりでショ。ブラジルではね、旦那と寝る時には、派手な物
をつけなさいっていうの。裸で寝る人も多いみたいだけど、まあ、そう教育されるの。
それで年をとったら、旦那の若返りの為に赤い下着をつけた方がいいって、しめるよう
な紐も赤いような派手なものにしなさいって。不思議なのヨ。老人ホームなんて色気も
へったくれも無いと思っていたけど、お婆さんもお爺さんも色気はたっぷりなのよ。男
と女なんていくつになっても色気が憑き物みたいにとれないノ」
とニコリとやる。笑うと金歯がキラリと光る。

 何日かして母は今度の休日に水族館に行こうと言いだした。私が黙っていると、行こ
う、行こうと言って、私の髪を撫でた。水族館は日曜日にもかかわらず人が少なかっ
た。水層の中には色々な種類の魚が漂い、不思議な形をした生物が暮らしていた。私た
ちは水槽に張り付くようにして水族館を眺めて廻った。小さな会場では、アシカの
ショーが行われていた。人が少なく、寂しげだった。それでも母はずいぶんとはしゃい
で見えた。ドーム型をした水槽の中央に在る皮のソファに座って母が買ってくれたソフ
トクリームを舐めた。舐めおえると、水槽の中をゆらゆらと漂った。同じところをぐる
ぐると廻っているだけなのに、飽きもせずにゆらゆらと漂っていた。

「私、魚に生まれてくるんだった」
母がポツリと言った。
「うん」
「こんな狭い水槽に住む魚じゃなくて、もっと温かくて、ずっと広いところに住むの」
「うん」
「ごめんね、母さん駄目みたい、イロイロ駄目みたい。ごめんね」
「そう」
なんで私に誤るのか不思議だった。不思議に思っただけで、言葉にならなかった。哀し
いような、哀しくないような、モヤモヤとした渦が溜った。涙は流れなかった。ゆらゆ
らと漂っていたから気がつかなかったのかもしれない。母は私の手を握った。しかし、
漂っているとその感触はあまり伝わってこなかった。私は無表情にゆらゆらと水槽の中
を漂うだけだった。
by holly-short | 2007-01-01 10:30 | short story
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